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◆第8話「命の素(こはく)と掟」

 

陽介が角牟礼城跡で冷たい宣告を受けていた頃。

旧豊後森機関庫では、冷たい冬の風が吹き抜けていた。

 

「ハルちゃん、最近なんだかぼんやりしてるね」

「もしかして、恋でもした?」

 

案内所のストーブの前で、同僚のスタッフがからかうように笑った。

「えっ……そ、そんなことありませんよ」

ハルは慌てて微笑み返したが、その頬はほんのりと桜色に染まっていた。無理もない。陽介から「一緒にカフェをやってほしい」と言われたあの瞬間から、彼女の胸の奥では、まるで春が来たかのように温かい感情がずっと渦巻いているのだから。

 

「顔、赤いよ。ほら、少し休憩しておいで。温かいものでも飲んでさ」

「……ありがとうございます。お言葉に甘えますね」

 

同僚の気遣いに頭を下げ、ハルは外の自動販売機へと向かった。

冷たい風に身をすくめながら、愛用のがま口財布を取り出す。小銭を探りながら、ふと、陽介が不器用に木を削る横顔や、ほうじ茶を飲んで笑い合ったあの夜の記憶が蘇ってきた。

(陽介さんの、あの温かいお店に、私が……)

 

その想像だけで、泣きたくなるほど愛おしい気持ちが胸を満たしていく。

硬貨を指先でつまみ出し、自販機の投入口へ伸ばした、その時だった。

 

――チャリン。

 

虚しい金属音が、冬の乾いたアスファルトに響いた。

「あっ……」

手元が狂ったのかと思い、ハルは足元に転がった百円玉を拾おうとしゃがみ込んだ。しかし、硬貨に伸ばした自分の右手が、そこにあるはずの硬貨を『すり抜けて』しまった。

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ハルは息を呑み、自分の手を見つめた。

冬の日差しに透かされた彼女の指先は、まるで磨りガラスのように背景の景色と同化し、うっすらと向こう側が透けて見えていた。

 

「……え?」

 

血の気が引くのを感じた。

何度瞬きをしても、指先の輪郭は曖昧なままだ。胸元の琥珀のネックレスが、まるで弱った心臓のように、明滅を繰り返している。

未知の恐怖に襲われたハルは、落ちた小銭を拾うことも忘れ、逃げるように事務所へと駆け戻った。そして、早退を申し出ると、逃げるように機関庫を後にした。

 

***

自分がどうなってしまうのか、どうしてしまったのか。

その答えに向き合うのが恐ろしくて、ハルはすべてを湯に流すように、町外れの温泉施設へと思わず足を向けていた。

 

そこは気分転換やささやかなご褒美として、彼女がたまに訪れる馴染みの場所だ。洞窟風呂、岩風呂、ひのき風呂、樽風呂――十二種類もの趣向を凝らした内湯の中から、今の彼女は吸い寄せられるように「けやきの湯」へ向かった。

薄暗い浴場の中央には、樹齢二百年を超える巨大な欅(けやき)が、まるで主のようにどっしりと根を下ろしている。大木が見守るその湯船に、ハルは身を隠すように深く、肩までお湯に浸かった。

 

立ち上る湯気と、静かな水音。

目を閉じ、深呼吸をして震えを鎮めようとする。

 

その時だった。

頭上に広がる巨大な欅の枝から、一滴の雫が、まるで樹木が流した涙のようにハルの額に落ちた。

 

ピシャン――。

 

その小さな衝撃と同時に、ハルの脳裏に、強烈な光と共に「ある記憶」が走馬灯のように駆け巡った。それは、人間としての記憶ではない。

自分が『何者』としてこの世界に顕現したのかという、世界の理(ことわり)そのものだった。

 

――『命の素(琥珀)』。

――『依り代となる仮の身体』。

――そして、『公(おおやけ)に尽くし、いつか本物の人間になりたいと願う強い思い』。

 

かつて、人々を乗せてこの町を走り抜けた蒸気機関車の誇り。その強い思念が奇跡を起こし、人間の姿を借りて顕現したのが「ハル」という存在だった。

案内人として町の人々や旅人に尽くすこと。その「公への献身」こそが、彼女をこの世界に繋ぎ止める絶対の契約条件だったのだ。

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しかし今、彼女の心はどうだ。

案内人としての使命よりも、ただ一人、陽介という人間の傍にいたい。彼と共に笑い、彼のカフェで、彼のためだけの時間を生きたい。

その強すぎる「私的な愛」は、かつて彼女を顕現させた「公への献身」という契約を根底から書き換える、明らかな『契約違反』だった。

 

額を伝う雫と共に、ハルは全てを理解した。

陽介を愛すれば愛するほど、人間になりたいという純粋な願いは「彼と結ばれたい」という個人的な執着に変わり、彼女を形作っていた命の素の力は失われていく。

あの時、指先が透けたのは気のせいではない。彼女の存在は、すでにこの世界から消えかかっているのだ。

 

「……そんな、残酷な」

 

湯船の中で、ハルは自分の両肩をきつく抱きしめた。

ようやく見つけた、たった一つの温かい居場所。彼と共に生きる未来を夢見た瞬間に、その愛こそが自分を消滅させる毒になるだなんて。

 

けやきの湯の静寂の中、ハルの声にならないむせび泣きだけが、誰に届くこともなくただ湯気に溶けていった。

 

 

 

【次回予告】

「どこに行ったんだよ、ハルさん……!」

誰もいないテーブルに残された、一通の白い封筒。冷たい雨が降りしきる中、陽介はただ一人、町を駆け抜ける。

次回、第9話「嵐の旧豊後森機関庫」。

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