
「スチーム・ロコモーション」
◆第1話「二つの朝」
プロローグ:二つの朝
チク、タク、と。
静寂に包まれた部屋に、ゼンマイ式時計の規則正しい音が響いている。
玖珠の山々が薄紫色から白へと色を変える頃、彼女はゆっくりと目を開けた。
柔らかな朝日に透けるような黒髪を束ね、クラシカルな生成りのフリルブラウスに袖を通す。深い灰色のロングスカートのプリーツを丁寧に整え、胸元の琥珀のネックレス――まるで遠い昔の光をとろりと閉じ込めたように木と琥珀が融合した、不思議なぬくもりを放つしずく――にそっと指先で触れた。

台所からは、いりこ出汁の優しい香りが漂っている。
炊きたての白いご飯に、熱いお豆腐の味噌汁、そして小さく焼いた塩鮭。彼女は静かに両手を合わせ、時間をかけて和食の朝餉(あさげ)を口に運ぶ。
お腹の底からじんわりと広がる温もり。今日もまた、迷える誰かの「道しるべ」となるための、静かで大切な儀式だった。
***
ジリリリリリリッ!
脳の芯を容赦なく叩き割るようなスマートフォンのアラーム音。鳴り始めて一秒も経たないうちに、陽介の指が反射的にそれを止めた。
遮光カーテンに閉ざされた薄暗い部屋。床には脱ぎ捨てられた部屋着や、いつ買ったかわからないコンビニ袋が無造作に転がっている。職場で全エネルギーを使い果たす彼には、帰宅後に自分の生活空間を整える余力など残されていなかった。
しかし、壁際のハンガーラックだけは異質な空間だった。
そこに掛けられたグレーのスーツには、シワ一つない。足元のレザーバッグは中身がパズルのように整頓され、いつでも完璧に出撃できる状態になっている。
ベッドから這い出した陽介は、冷蔵庫から取り出した冷たいエネルギーゼリーの封を切り、十秒で喉の奥へと流し込んだ。空になった容器を、すでに溢れかえっているゴミ箱へ放り投げる。
丁寧にアイロンがけされたシャツに腕を通し、グレーのスーツを身に纏う。それは彼にとって、失敗という恐怖から身を守るための「鎧」だった。
鞄を開け、書類と手帳が入っているかを三度確認する。昨夜完璧に準備したはずなのに、確かめずにはいられない。
ふと、スマートフォンの画面が点灯した。後輩からのメッセージだ。
『先輩の要求するレベルには、これ以上ついていけません。プロジェクトから外してください』
陽介は画面を見つめたまま、小さく息を吐き出して画面を伏せた。
自分ができることは、他人もできるはずだ。そう信じて引き上げようとしただけなのに。完璧な仕事をして会社に尽くせば尽くすほど、気づけば周りから人が消えていく。
玄関に向かい、磨き上げられた革靴に足を入れる。その靴箱の上に、一枚の写真が飾られていた。
数日前にあっけなくこの世を去った、祖父の写真。
失敗を極端に恐れる陽介とは正反対の、豪快でエネルギッシュな笑顔。大分県・玖珠町の雄大な自然を背に笑うその姿は、陽介がずっと憧れていた「生きている」人間の顔だった。
――俺は、このままでいいのか?
いつ死ぬかなんて、誰にもわからない。それなのに自分は、足の踏み場もない部屋から完璧な鎧を着込んで、誰かが敷いたレールの上で摩耗していくだけ。いつでも代わりがきく、ただの優秀な歯車として。
ドアノブにかけた手が止まる。
後悔のない人生を送りたい。自分の意志で、自分の人生を。あの人が生きた、玖珠町で――。
第1章:石垣の上の君主と、色褪せた迷子
玖珠町に移住して半年。
生活の拠点としているのは、祖父が遺した平屋の一軒家だ。主を失って久しい家の中はどこかひんやりとしていて、古い木の匂いがする。
殺風景な部屋の隅には、音楽を深く愛していた祖父が遺した、時代遅れなほど大きな木製スピーカーが静かに鎮座していた。
陽介は、その無骨な木のぬくもりが残る静まり返った部屋で、深いため息をついた。
テーブルの上に散乱しているのは、細部まで完璧に計算し尽くした「カフェ開業事業計画書」と、地元の業者から突き返された見積書の山だ。
『陽介くんの計画は隙がなさすぎて、ウチらにはちょっと息が詰まるわ』
『もう少し、町の人とゆっくり話してからでも遅くないんじゃないか?』
言葉が、刺さった棘のように胸の奥でチリチリと痛む。
誰かに仕事を任せてクオリティが下がるくらいなら、いっそすべて自分の手でこなせばいい。かつての職場では、そうやってあらゆる業務を一人でコントロールし、確実な結果を出してきた。だが、その「一人で完結する完璧さ」が、ここでは彼を孤立させる分厚い壁になっていた。
目の前に散らばる紙の束が、まるで自分の存在そのものを否定しているように見え、陽介はたまらず上着を掴んで家を飛び出した。
【次回予告】
「……弱いなら、一人で無茶な喧嘩なんかするなよ」
自分の物差しで町を測り、孤立していく陽介。そんな彼の前に現れたのは、ボロボロになりながらも王者の威厳を放つ、一匹のキジトラ猫だった。
次回、第2話「石垣の上の君主」。

物語の舞台
大分県玖珠町は、メサ(卓状地)の山々に囲まれ、幻想的な朝霧に包まれる盆地の町。
中心の豊後森駅を起点に西へ行けば町役場、東には蒸気機関車の遺構・豊後森機関庫が佇み、南には標高685mの平らなシンボル「伐株山」がどっしりとそびえ立つ。
一方、北の歴史ある森地区には角牟礼城跡や静かな末広神社、地元で愛されるお好み焼き屋があり、この十字の町を舞台に物語が幕を開ける。