
◆第5話「伐株山の風と、黄昏の機関庫」
向かった先は、玖珠町のシンボルとも言える「伐株山(きりかぶさん)」。その名の通り、巨大な樹木の切り株のような、頂上が平らに削られた不思議な形をした山だ。
山頂の駐車場でタクシーを降りると、そこには山の頂とは思えないほど開けた空間が広がっていた。下から見上げていた平らなシルエットとは違い、実際の地形にはなだらかな起伏がある。眼下に町を一望できる土手の縁へ向かって、ゆるやかな下り坂が続いていた。
「うわ……すごいな」
吹き抜ける春の強い風に目を細めながら、陽介は感嘆の声を漏らした。
誘われるようにその下り坂を歩き、土手の縁に立つと、眼下には玖珠の盆地がパノラマのように広がっていた。空がやけに近く感じる。
今朝、全てに行き詰まって絶望していた角牟礼城跡よりも、ずっと高く開けた場所。あの時、一人で膝を抱えていた自分が、ひどくちっぽけな点のように思えた。

自分を縛り付けていた完璧主義も、他人に認めてもらいたいという執着も、この広大な景色と風の中では、ただの埃のように吹き飛んでいく気がした。
「陽介さん!」
不意に、少し離れた場所から明るい声が響いた。
振り返ると、眼下に町が見渡せる切り立った土手の縁に、ハルが立っていた。
クラシカルで落ち着いたたたずまいの彼女が、今は山の下から吹き上げる強い風にプリーツスカートを大きく煽られながら、土手の縁ギリギリで両手を真横にピンと広げている。
まるで、空に飛び立とうとする鳥か、あるいは綱渡りを楽しむ子どものように。
「ほら、見てください! ここに立つと、風の通り道がわかるんですよ! すごい風。……ふふっ、鳥になったみたいでしょう?」
琥珀のネックレスが陽光を反射してきらきらと光り、黒髪が春の風に激しく舞う。その無防備で無邪気な笑顔は、大正時代から来たような神秘的な女性というより、年相応の、ただの明るく愛らしい一人の少女のようだった。

「おいおい、危ないぞ! 落ちるなよ!」
陽介は慌てて駆け寄りながらも、顔の筋肉が自然と緩んでしまうのを止められなかった。
「ふふっ、大丈夫です! 私、こう見えて身軽なんですから」
吹き上げる風を全身に受けながら振り返って、ハルは太陽のように笑った。
青い空と、緑の草原。そして、切り立った土手の縁で鳥のように両手を広げて笑う、琥珀色の瞳の君。
その景色は、陽介の脳裏に、まるで一枚の鮮やかな絵画のように焼き付いた。
ずっとモノクロームだった自分の人生に、これほどまでに強烈で、美しい色彩が入り込んでくるなんて、昨日の夜までの自分なら絶対に信じなかっただろう。
陽介は彼女のすぐそばまで歩み寄り、共に吹き抜ける風を感じながら微笑み返した。
もう、一人で戦う必要はない。誰かに頼り、一緒に笑い合えることの豊かさを、彼女が教えてくれたのだから。
伐株山を下りる頃には、玖珠の空は燃えるような茜色に染まっていた。
お爺ちゃんのタクシーに別れを告げ、二人は駅へ向かってゆっくりと歩いていた。町全体が、夕暮れ特有のノスタルジックな空気に包まれている。
「最後にもう一つだけ、見ていただきたい景色があるんです」
ハルが立ち止まったのは、駅から少し歩いた町外れ、少し開けた場所だった。
彼女の視線の先には、夕日を背にしてそびえ立つ扇形の巨大なコンクリート建築――「旧豊後森機関庫」があった。
放射状に並ぶ車庫と、機関車の向きを変える巨大な鉄の転車台。最盛期には25両もの蒸気機関車を擁し、幾筋もの黒煙を上げていたという。かつて九州の鉄道の要衝として鉄と石炭の匂いを漂わせていたその場所は、今は役目を終え、静かな眠りについている。
そして、転車台の前には一台の漆黒の蒸気機関車が、まるで時の流れから取り残されたようにひっそりと佇んでいた。
「……立派なもんだな。あんなに大きな施設が残ってるなんて」
陽介が感嘆の声を漏らして隣を見ると、ハルは何も答えない。
先ほどまで伐株山の上で、風を受けて無邪気に笑っていた彼女の姿はそこになかった。
夕風に黒髪を揺らす彼女は、ただ静かに、遠くの蒸気機関車を見つめている。
その琥珀色の瞳の奥に浮かんでいたのは、遠い昔の愛しい記憶を愛しむような優しさと、そして――今にも泣き出してしまいそうな、透き通るような哀しみだった。
胸元で揺れる琥珀のネックレスが、夕日を受けて微かに明滅しているように見える。
「……あの子はもう、自らの足で走ることはありません」
独り言のように、風に溶けて消え入りそうな声だった。
「鉄の体は冷たくなり、煙を上げることもない。……でも、こうして誰かの記憶の風景の一部として留まることができれば、それはきっと、幸せなことなのでしょうね」
どこか自分自身に言い聞かせるような、ひどく儚い響き。
その横顔を見た瞬間、陽介の胸の奥が、ギリッと音を立てて締め付けられた。
今日一日、彼女の温かな案内に救われ、無邪気な笑顔に惹かれていた自分がいる。冷え切っていた自分の心に、彼女が鮮やかな色を落としてくれたのだと、はっきりと自覚していた。
だが同時に、陽介は本能的に感じ取っていた。
この大正時代から抜け出してきたような不思議な女性は、自分などには想像もつかないほど、深く、哀しい秘密を抱えているのではないか、と。
「……ハルさん」
思わず伸ばしかけた陽介の手は、空を切った。彼女と自分の間には、目には見えないけれど、決して越えられない途方もない「時間」の壁があるような気がして、どうしても触れることができなかった。
茜色の空の下、遠くでカラスが鳴いた。
陽介はただ、夕日の中で幻のように佇む彼女の横顔から、目を逸らすことができなかった。

【次回予告】
「俺の作ったこの店に、君のその温かい空気を満たしてほしい」
不器用な手仕事で作られた空間。陽介の真っ直ぐな言葉に、ハルの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。
次回、第6話「手仕事の誓い」。