
◆第9話「嵐の旧豊後森機関庫」
「……おかしいな」
陽介は、自作したカフェのカウンターで、ノコギリを持ったまま小さく呟いた。
ハルに「一緒に店をやってほしい」と想いを伝え、彼女が涙を流して頷いてくれたあの日から、もう一週間が経とうとしている。
あれほど頻繁にお茶や差し入れを持って様子を見に来てくれていたハルが、あの日を境に、ぱったりと姿を見せなくなったのだ。
最初は、案内所の仕事が忙しいのだろうと思っていた。
しかし、思い切って案内所や旧豊後森機関庫へ足を運んでみても、「今日は非番です」「さっきまでいたんですが、急用で帰りました」と、まるで見計らったようにすれ違ってしまう。
一度だけ、町外れのスーパーの駐車場で彼女の後ろ姿を見かけたが、陽介が声をかける前に、彼女は足早に路地へ姿を消してしまった。
――明らかに、避けられている。
陽介は手元の木材から目を離し、冷たくなったコーヒーを一口飲んだ。
理由が全く分からなかった。あんなに嬉しそうに頷いてくれたのに。心が通じ合ったはずなのに。
何か気に障ることをしてしまっただろうか。それとも、あの時の言葉はただの同情で、後になって重荷に感じてしまったのだろうか。
完璧主義の鎧を脱ぎ捨て、やっと誰かを心から信じ、頼ることができるようになった矢先の出来事。陽介の心に、再び冷たい孤独の影が落ち始めていた。
あの時、角牟礼城跡で殿猫が言った『あれはやめておけ、不幸を招くぞ』という不吉な忠告が、嫌な予感となって脳裏にこびりついて離れなかった。
***
同じ頃。
ハルは、陽介の家から少し離れた神社の境内で、一人膝を抱えていた。
吐き出す息は白く、冬の寒さが身に染みるはずなのに、彼女の身体はどこか現実感がなく、ふんわりと宙に浮いているような奇妙な感覚に陥っていた。
(……陽介さん、ごめんなさい。本当に、ごめんなさい)
彼女は、胸元の琥珀のネックレスをきつく握りしめた。
その光は、あの日けやきの湯で真実を知った時よりも、さらに弱々しく、今にも消え入りそうに明滅している。
そして、彼女の左手は――手首から先が、すでに半透明に透け、向こう側の神社の石段がうっすらと見えている状態だった。
『私的な愛』に傾いたことで、顕現の契約は破綻しつつある。
このまま陽介のそばにいて、彼を深く愛し続ければ、彼女は遠からず完全に存在を失い、この世界から消滅してしまう。
だから、離れなければならなかった。
自分の存在が消えてしまえば、ようやく前を向いて歩き始めた陽介を、再び深い絶望の淵に突き落としてしまうことになる。彼を悲しませないためには、彼をこれ以上愛さないように、物理的に距離を置くしかなかった。
(陽介さんの顔を見なければ。声を聞かなければ。そうすれば、少しずつ元の『案内人としての私』に戻って、消えずに済むかもしれない……)
そう自分に言い聞かせ、必死に彼を避けてきた。
だが、それは全くの逆効果だった。
会えない時間が長くなるほど、陽介の不器用な優しさや、木を削る真剣な横顔、そしてあの夜の「君じゃなきゃ、駄目なんだ」という真っ直ぐな言葉が、何度も何度もフラッシュバックする。
理屈で感情に蓋をしようとしても、彼を想う気持ちは膨れ上がるばかりだった。一度走り出した蒸気機関車が急には止まれないように、彼女の恋もまた、もう誰にも、自分自身にさえブレーキをかけることはできなかった。
「……会いたい」
神社の静寂の中、ハルの口からポロリと本音がこぼれ落ちた。
陽介に会いたい。あの温かい土間で、彼の淹れたコーヒーを飲みながら、一緒に笑い合いたい。
たとえそれが、自分の命を削る行為だとしても。
その強烈な「私的な願い」を口にした瞬間、ハルの身体が淡い光に包まれ、今度は両足のつま先が、ふっと薄れ始めた。
消失のスピードが、明らかに加速している。
ハルは絶望的な表情で、透けゆく自分の手足を見つめた。もう、残された時間はほとんどないということを、彼女自身が一番よく理解していた。
***
カフェの形が少しずつ見え始めた空間。陽介はスピーカーの取り付けを終え、小さく息をついた。
ふと落とした視線の先。ハルと穏やかにお茶を飲んだあの木のテーブルの上に、見慣れない白い封筒がぽつんと置かれている。

指先に残る木屑を払いながら、それに手を伸ばす。なぜか、ひどく嫌な胸騒ぎがした。
僅かに震える指で封を開ける。中に入っていた便箋には、ハルらしい丁寧で優しい字が並んでいた。これまでの感謝。そして――どうか自分を探さないでほしいという、切実な願いが綴られていた。
文字を追うごとに、陽介の血の気が引いていく。手紙を握りしめる力が制御できず、紙が悲鳴のようにくしゃりと歪んだ。心臓を直接鷲掴みにされたような痛みが胸を貫く。
「くそっ……! どこに行ったんだよ、ハルさん……!」

外へ飛び出すと、春先の冷たい風が容赦なく陽介の頬を叩きつけた。
玖珠町中を走り回り、息も絶え絶えになった夕暮れ時。いつしか空は灰色の雲に覆われ、ポツリ、ポツリと冷たい雨が落ちてきた。
雨空を見上げた瞬間、陽介の脳裏に「ある景色」が閃いた。
――『あの子はもう、自らの足で走ることはありません』
いつか二人で町を歩いた日の夕暮れ。遠くの蒸気機関車を見つめながら、今にも泣き出しそうな、ひどく哀しい横顔を見せていた彼女の姿。
陽介は弾かれたように駆け出した。向かった先は、町外れにそびえ立つ扇形の巨大なコンクリート建築。「旧豊後森機関庫」だった。
息を切らして敷地内に飛び込む頃には、雨は強風と相まって嵐のように荒れ狂っていた。時刻は十八時を回り、辺りはすでに薄暗い。灰色の雲を背に黒々としたシルエットを落とす機関庫と、中央の転車台の前に眠る漆黒の蒸気機関車。陽介はずぶ濡れになりながら敷地内を必死に探し回ったが、彼女の姿はどこにもない。
(残るは、あの中だけだ――)
陽介は意を決し、立ち入り禁止の柵を迷わず越えて、廃墟と化した機関庫へと足を踏み入れた。
色褪せたコンクリートと、錆びた窓枠。吹き荒れる風が、無数に割れた窓ガラスから時折冷たい雨のしぶきを運び込んでくる。
雨音と風の唸りだけが響く暗がりの中、目を凝らして進むと、重厚なコンクリートの奥深くに、ぽつんと佇む人影が見えた。
「ハルさん……っ!!」
陽介の叫び声に、立っていた彼女の肩がビクッと跳ねる。駆け寄ろうとする陽介に向けて、ハルが悲痛な声を上げた。
「来ないでッ!!」
陽介が好きでたまらない。けれど、好きになれば自分が消えてしまう。消えてしまえば、陽介を一人にして、深く傷つけてしまう。拮抗する感情に引き裂かれそうになりながらも、彼女は自身の終わりが確実に来ていることを感じ取っていた。
彼女の身体は、まるで古い幻灯機が映し出す映像のように、向こう側のコンクリートの壁が『透けて』見えていたのだ。足元はすでに輪郭を失い、冷え切った春先の空気に溶けかかっている。
陽介が、たまらずもう一度声をかけようとした。
その時だった。
【次回予告】
「あぶないっ!!」
降り注ぐ無数のガラス片。身を挺して彼女を庇い、血に染まっていく陽介。
限界を迎えたハルが最後に選んだ、究極の選択とは。
次回、第10話「奇跡のボルト」。
