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スチーム・ロコモーション

 

 

プロローグ:二つの朝

 

チク、タク、と。

静寂に包まれた部屋に、ゼンマイ式時計の規則正しい音が響いている。

 

玖珠の山々が薄紫色から白へと色を変える頃、彼女はゆっくりと目を開けた。

柔らかな朝日に透けるような黒髪を束ね、クラシカルな生成りのフリルブラウスに袖を通す。深い灰色のロングスカートのプリーツを丁寧に整え、胸元の琥珀のネックレス――まるで遠い昔の光をとろりと閉じ込めたように木と琥珀が融合した、不思議なぬくもりを放つしずく――にそっと指先で触れた。

 

台所からは、いりこ出汁の優しい香りが漂っている。

炊きたての白いご飯に、熱いお豆腐の味噌汁、そして小さく焼いた塩鮭。彼女は静かに両手を合わせ、時間をかけて和食の朝餉(あさげ)を口に運ぶ。

お腹の底からじんわりと広がる温もり。今日もまた、迷える誰かの「道しるべ」となるための、静かで大切な儀式だった。

 

***

 

ジリリリリリリッ!

脳の芯を容赦なく叩き割るようなスマートフォンのアラーム音。鳴り始めて一秒も経たないうちに、陽介の指が反射的にそれを止めた。

 

遮光カーテンに閉ざされた薄暗い部屋。床には脱ぎ捨てられた部屋着や、いつ買ったかわからないコンビニ袋が無造作に転がっている。職場で全エネルギーを使い果たす彼には、帰宅後に自分の生活空間を整える余力など残されていなかった。

 

しかし、壁際のハンガーラックだけは異質な空間だった。

そこに掛けられたグレーのスーツには、シワ一つない。足元のレザーバッグは中身がパズルのように整頓され、いつでも完璧に出撃できる状態になっている。

 

ベッドから這い出した陽介は、冷蔵庫から取り出した冷たいエネルギーゼリーの封を切り、十秒で喉の奥へと流し込んだ。空になった容器を、すでに溢れかえっているゴミ箱へ放り投げる。

 

丁寧にアイロンがけされたシャツに腕を通し、グレーのスーツを身に纏う。それは彼にとって、失敗という恐怖から身を守るための「鎧」だった。

鞄を開け、書類と手帳が入っているかを三度確認する。昨夜完璧に準備したはずなのに、確かめずにはいられない。

 

ふと、スマートフォンの画面が点灯した。後輩からのメッセージだ。

『先輩の要求するレベルには、これ以上ついていけません。プロジェクトから外してください』

 

陽介は画面を見つめたまま、小さく息を吐き出して画面を伏せた。

自分ができることは、他人もできるはずだ。そう信じて引き上げようとしただけなのに。完璧な仕事をして会社に尽くせば尽くすほど、気づけば周りから人が消えていく。

 

玄関に向かい、磨き上げられた革靴に足を入れる。その靴箱の上に、一枚の写真が飾られていた。

数日前にあっけなくこの世を去った、祖父の写真。

失敗を極端に恐れる陽介とは正反対の、豪快でエネルギッシュな笑顔。大分県・玖珠町の雄大な自然を背に笑うその姿は、陽介がずっと憧れていた「生きている」人間の顔だった。

 

――俺は、このままでいいのか?

 

いつ死ぬかなんて、誰にもわからない。それなのに自分は、足の踏み場もない部屋から完璧な鎧を着込んで、誰かが敷いたレールの上で摩耗していくだけ。いつでも代わりがきく、ただの優秀な歯車として。

 

ドアノブにかけた手が止まる。

後悔のない人生を送りたい。自分の意志で、自分の人生を。あの人が生きた、玖珠町で――。

第1章:石垣の上の君主と、色褪せた迷子

 

玖珠町に移住して半年。

生活の拠点としているのは、祖父が遺した平屋の一軒家だ。主を失って久しい家の中はどこかひんやりとしていて、古い木の匂いがする。

殺風景な部屋の隅には、音楽を深く愛していた祖父が遺した、時代遅れなほど大きな木製スピーカーが静かに鎮座していた。

 

陽介は、その無骨な木のぬくもりが残る静まり返った部屋で、深いため息をついた。

 

テーブルの上に散乱しているのは、細部まで完璧に計算し尽くした「カフェ開業事業計画書」と、地元の業者から突き返された見積書の山だ。

『陽介くんの計画は隙がなさすぎて、ウチらにはちょっと息が詰まるわ』

『もう少し、町の人とゆっくり話してからでも遅くないんじゃないか?』

 

言葉が、刺さった棘のように胸の奥でチリチリと痛む。

 

誰かに仕事を任せてクオリティが下がるくらいなら、いっそすべて自分の手でこなせばいい。かつての職場では、そうやってあらゆる業務を一人でコントロールし、確実な結果を出してきた。だが、その「一人で完結する完璧さ」が、ここでは彼を孤立させる分厚い壁になっていた。

 

目の前に散らばる紙の束が、まるで自分の存在そのものを否定しているように見え、陽介はたまらず上着を掴んで家を飛び出した。

車を走らせてたどり着いたのは「角牟礼城(つのむれじょう)跡」だった。この地域で栄えた山城の跡地。今はもう建物はなく、静かな森の中に当時の土塁や苔むした石垣の一部がひっそりと残っているだけだ。

車を降り、険しい山道を登りきる。頂上に辿り着いた時、陽介は崩れ落ちるようにその場にしゃがみ込んだ。

 

「ニギャーッ!」「シャーッ!!」

 

不意に、静寂を破るけたたましい声が響いた。

目を向けると、少し離れた石垣の陰で二匹の猫が取っ組み合っている。一匹は恰幅のいいボス猫風。もう一匹は、体格で明らかに劣るキジトラだ。キジトラも機敏に身を躱し応戦しているが、力押しでジリジリと追い詰められていく。

 

(……うるさいな)

 

陽介は短く息を吐き、足を踏み出した。普段なら自然の摂理だと通り過ぎるだろう。だが、行き場のない苛立ちを抱えていた今の彼には、目の前で無様に痛めつけられている姿をただ眺めている気になれなかった。

 

足元にあった枯れ枝を拾い上げ、地面の土を強く叩く。

乾いた破裂音と人間の気配に驚いた大柄な猫は、舌打ちをするように身を翻し、茂みの奥へと消えていった。

 

「……弱いなら、一人で無茶な喧嘩なんかするなよ」

 

あとに残された泥だらけのキジトラを見下ろし、呆れたように声をかける。

しかし、次の瞬間、陽介は言葉を失った。怯えて逃げ出すかと思いきや、そのキジトラはゆっくりと姿勢を正し、泥だらけの顔で陽介を真っ直ぐに見据え返してきたのだ。

 

そこに、力負けした惨めさは微塵もなかった。

ただ己の現在地を受け入れ、次を見据えているかのような、奇妙なほど堂々たる佇まい。

 

その静かで力強い瞳に射すくめられ、陽介は手にした枝を思わず下ろした。

――それに引き換え、自分はどうだ。

 

何でも一人でできると意固地になり、誰の力も借りようとせず、完璧な城の模型の中で一人息を詰まらせている。

 

キジトラ――のちに彼が『殿猫』と呼ぶことになるその猫は、短く喉を鳴らすと、ふいっと顔を背けた。その視線の先には、ふもとに広がる玖珠の町並みがあった。

 

(一人で抱え込んでいる暇があるなら、誰かを頼ってみろ)

 

背中を叩かれたような気がした。

陽介はズボンの泥を払い、深く息を吸い込んだ。

 

「……そうだな。俺はこの町のことを、まだ何も知らない」

 

凝り固まった自分の物差しは、一度捨てよう。町の空気を知るために、誰かにこの町を案内してもらうのも悪くないかもしれない。

 

陽介は、ふもとの観光案内所へ向けてゆっくりと歩き出した。その後ろ姿を、石垣の上の殿猫が静かに見送っていた。

 

角牟礼城跡を下り、陽介が向かったのは駅に隣接した小さな観光案内所だった。

中に入ると、こぢんまりとした素朴な空間に、色あせた観光ポスターや手作りのパンフレットが並んでいる。カウンターの奥では、地元のスタッフらしき初老の男性が座っていた。

 

「すみません。この町を個人的に案内してくれる、ガイドのようなサービスはありますか?」

 

陽介の唐突な問いかけに、男性は目をパチクリとさせた。

 

「個人的なガイド、ですか? いやあ……週末なら旧機関庫のボランティアガイドがおるんですが、平日に付きっきりで町を案内するような専属のサービスは、ちょっとやってないですねえ。おすすめのスポットが書かれた地図ならありますけど」

 

困惑したような男性の返答に、陽介は自嘲気味に小さく息を吐いた。

 

(また一人で勝手に期待して、勝手にがっかりしているな……)

 

頭の中で完璧な段取りを組み上げ、その通りに事が運ぶと思い込んでしまうのは昔からの悪い癖だ。一人で前のめりになっていた分、思い通りにいかなかった時の落胆も人一倍大きくなる。自分の物差しで測るのをやめようと決めたばかりなのに、染みついた性分はなかなか抜けないようだ。

 

「……そうですよね。おかしなことを聞いてすみませ――」

 

「よろしければ、私がご案内いたしましょうか」

 

ふいに、背後から凛とした声が響いた。

鈴を転がすような、それでいて不思議と耳の奥にスッと馴染む落ち着いた声。陽介は弾かれたように振り返った。

 

そこに立っていたのは、時代を間違えて迷い込んできたかのような、ひとりの女性だった。

 

クラシカルな生成りのフリルブラウスに、足首まである深い灰色のプリーツスカート。艶やかな黒髪が、春の柔らかな日差しを吸い込んでいる。

陽介の目を何よりも釘付けにしたのは、彼女の胸元で微かな光を放つ、黒い革紐で吊るされた琥珀のネックレスだった。木と融合した琥珀色の結晶が、まるで彼女自身の鼓動に合わせるように、不思議な温もりを帯びているように見えた。

 

そして、そのネックレスと同じ、透き通るような琥珀色の瞳。

彼女の周りだけ、大正や昭和のゆったりとした時間が流れているような錯覚に陥る。陽介のモノクロームに沈んでいた視界に、一瞬にして鮮やかな色彩が咲き誇った。

 

「……あなたは?」

「玖珠の町へ、ようこそおいでくださいました」

 

彼女は陽介の問いには直接答えず、ふわりと慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。

 

「私の名前は、ハルと申します。少しばかり古い人間ですが……この町の空気をお伝えすることなら、お役に立てるかもしれません」

 

カウンターの奥の男性は「はて、誰だったかな」というように首を傾げている。どうやら案内所の正規職員というわけでもなさそうだ。

捉えどころのない、不思議な魅力を持つ女性。頭の中で完璧な段取りを求める陽介の性分からすれば、こんな想定外の提案に乗ることは本来あり得ないはずだった。

それでも、なぜか彼女から目を逸らすことができなかった。その琥珀色の瞳の奥に、言葉では説明できない深い「郷愁」と、どこか自分と同じような「孤独の匂い」を感じたからだ。

だからだろうか。彼女のペースに巻き込まれるのはなぜか嫌な気がせず、陽介は警戒するどころか、自然とその提案に頷いていた。

 

「……陽介です。案内を、お願いできますか」

 

自分でも驚くほど素直な声が出た。

ハルは嬉しそうに頷くと、「出発、進行ですね」と小さく呟き、陽介に向かって静かに手を差し伸べた。

春の温かい風が、案内所の開いた窓から二人の間をふわりと吹き抜けていった。

第2章:琥珀色の案内人と、ほどける鎧

 

案内所を出ると、春の柔らかな日差しの中に、一台の古い個人タクシーが停まっていた。少し色褪せた車体がいかにも年季を感じさせる。

 

「おや、ハルちゃん。今日はお客さんがおるんやね」

運転席から顔を出したのは、白いハンチング帽を被った、人の良さそうなお爺さんだった。のんびりとした大分弁が、長閑な空気に溶け込んでいる。

 

「ええ。今日は陽介さんをご案内するんです。いつものようにお願いできますか?」

「よかよか。ほんなら、ゆっくり行こうかね」

 

ハルに促されるまま後部座席に乗り込むと、車内には使い込まれたモケットシートの匂いと、微かなポマードの香りが漂っていた。

運転手がダッシュボードの古いカセットデッキにテープを押し込む。ガチャン、という物理的な手応えに続いて、サーッという特有のノイズ音が鳴り、やがて穏やかなアコースティックギターの旋律が車内を満たし始めた。

 

タクシーは、エンジンの低い唸り声を上げながらゆっくりと走り出す。

少しだけ開けられた窓から玖珠の春風が滑り込み、隣に座るハルの黒髪をふわりと揺らした。

 

流れる景色と、アコースティックの調べ。

それは完璧に穏やかな時間だった。しかし、陽介の体にはまだ、都会で身につけた「呪い」が染み付いていた。

無意識のうちにジャケットのポケットからスマートフォンを取り出し、画面をタップする。時刻は午前十時十五分。ロック画面に並ぶ未読メッセージの通知。この後のルートはどうなっているのか、昼食の時間は、効率的な移動の順番は……。頼まれてもいないのに、頭の中で勝手に計算式が組み上がりそうになる。

 

その時、ふわりと視界の端に生成りの袖が揺れた。

 

「陽介さん」

 

鈴を転がすような声に顔を上げると、ハルが少し首を傾げてこちらを見つめていた。その透き通るような琥珀色の瞳が、陽介の手元にある黒い板へと向けられている。

 

「今日はその小さな時計を、少しだけお休みさせてみませんか?」

 

咎めるでもなく、呆れるでもない。ただ、こわばった肩の力を抜いてあげるような、ひどく優しい響きだった。

 

陽介はハルの顔と、無機質に光る自分の手元の画面を交互に見比べた。

一分一秒を争って生きてきた。常に時間を把握し、効率を支配しなければ、社会から弾き出されてしまうと信じていた。事業計画書を作るときも、彼は常にこの「小さな時計」と睨めっこをしていた。

けれど、ここはもう、あの息が詰まるような四角い箱の中ではないのだ。

 

カチッ。

陽介は短く息を吐き、スマートフォンの電源ボタンを押して画面を真っ暗にした。そしてそれを、カバンの奥底へと滑り込ませる。

 

「……そうだな。今日は、時間は気にしないことにする」

 

陽介の言葉に、ハルは花が綻ぶようにふわりと微笑んだ。

胸元で揺れる琥珀のネックレスが、カセットテープから流れるアナログな音色に合わせるように、かすかに温かい光を帯びた気がした。

 

陽介は背もたれに深く体を預けた。そして、玖珠町に移住してきてから初めて、ただ景色を味わうためだけに、窓の外へと視線を向けた。

 

タクシーを降りた二人は、ゆったりとした時間の流れる町並みを歩き、やがて玖珠町役場のエントランスへと足を踏み入れた。

スマートフォンの地図アプリで現在地を確かめることも、次の目的地の到着時刻を計算することもない。ただ、隣を歩くハルの穏やかな歩幅に合わせているだけで、春の陽気が心地よく感じられた。

 

「少し、見ていただきたいものがあるんです」

 

ハルが足を止めたのは、ロビーの一角に設けられた展示スペースだった。

大分の郷土玩具である「きじ車」が静かに並んでいる。木削りで雉(きじ)をかたどり、二つの車輪がついた素朴で愛らしい玩具だ。

 

決して精密な工業製品ではない。だが、木という素材が持つ本来の柔らかさと、刃物を握った作り手の丁寧な息遣いが、その丸みを帯びたフォルムから確かに伝わってくる。

 

「これは、昔からこの土地で愛されてきたものです」

ハルは少し身を乗り出し、荒削りな木肌の質感をその目で直接確かめるように見つめながら、静かに口を開いた。

「効率やスピードだけを追い求めていたら、この素朴な温もりは生まれません。人の手で丁寧に時間をかけられ、想いを込められたものには……確かな『命』が宿るんですよ」

 

想いを込められたものには、命が宿る。

鈴を転がすようなハルの声が、陽介の胸の奥にストンと落ちた。

 

カフェを開業しようと躍起になっていた時、自分が夜を徹して作っていたのは、利益率や回転率を弾き出した「完璧な数字の羅列」だった。そこに、店を訪れる人の体温や、空間に対する想いはすっぽりと抜け落ちていたのだ。

『ウチらにはちょっと息が詰まるわ』と世話役に言われた意味が、今なら痛いほどよく分かる。

 

素朴な郷土玩具と、それを愛おしそうに見つめるハル。

彼女の胸元で揺れる琥珀のネックレスもまた、誰かの途方もない時間と想いが込められたものに見えた。

 

陽介は小さく息を吐き出した。

自分がずっと身にまとっていた「効率」と「完璧主義」という重たい鎧の紐が、音を立てて解けていくのを感じていた。

 

「……陽介さん?」

「いや、なんでもない。なんだか急に、腹が減ってきたなと思って」

 

陽介が誤魔化すように笑うと、ハルは「ふふっ」と口元を押さえて笑った。

 

「ふふふ。実は、陽介さんにどうしても召し上がっていただきたい、とっておきのお店があるんです」

 

そう言って歩き出した彼女の足取りは、先ほどよりも少しだけ弾んでいるように見えた。

 

ハルに連れられて辿り着いたのは、少し路地を入った先にある、年季の入ったお好み焼き屋だった。

暖簾をくぐると、ソースが熱で焦げる甘辛い匂いがふわりと鼻をくすぐる。

 

(……ここで、お好み焼きか)

案内された席に腰を下ろしながら、陽介は心の中で密かに苦笑した。

兵庫県出身の陽介にとって、お好み焼きは馴染み深い日常の味だ。まさか大分の玖珠町で、しかも大正時代から抜け出してきたようなクラシカルな装いの女性と、鉄板を囲むことになるとは想像もしていなかった。

 

壁に貼られた手書きのメニューから定番の豚玉を二つ頼むと、やがて熱々のお好み焼きが運ばれてきた。

 

「いただきます」

向かいの席で両手を合わせたハルは、迷いなく割り箸を手に取った。

そして、手慣れた様子でお好み焼きを小さく切り分けると、顔を近づけて「ふー、ふー」と一生懸命に息を吹きかけ始めた。

 

フリルブラウスに琥珀のネックレスという優雅な出立ちのまま、湯気の向こうで熱心にお好み焼きを冷ます姿は、彼女の神秘的な雰囲気からするとあまりにもギャップがあった。

 

やがて、程よく冷めたであろう一口をパクリと頬張る。

その瞬間、彼女の琥珀色の瞳がパッと輝き、花が咲いたように頬が緩んだ。心の底から幸せそうな、飾らない、無邪気な笑顔だった。

 

「……っ、ふ、あははっ!」

 

気づけば、陽介の口から声がこぼれていた。

最初は押し殺したような笑いだったが、やがて肩を揺らし、声に出して笑ってしまった。

 

「えっ? 陽介さん、私、何かおかしなことをしましたか?」

箸を止めて不思議そうに小首を傾げるハルを見て、陽介はさらに吹き出しそうになるのを必死で堪えながら手を振った。

 

「いや、ごめん。俺、兵庫出身やからお好み焼きは昔からよく食べてるけど。君みたいな上品な人が、そんなに幸せそうな顔でお好み焼きを頬張るもんだから……そのギャップが、なんかすごく良くて」

 

「もう、笑わないでくださいよ。ここのお好み焼き、本当に美味しいんですから」

少し恥ずかしそうに頬を膨らませるハルに、陽介は「悪かったよ」と笑いながら自分の割り箸を割った。

 

陽介は一口頬張り、笑いすぎた目元を指で拭いながら、ふと気づく。玖珠町に移住してきてから半年間、自分がこんな風に声を出して、他人の前で自然に笑ったことなど、ただの一度もなかったということに。

 

彼を縛り付けていた完璧主義という冷たい鎧は、もう完全に脱げ落ちていた。

腹の底に落ちていく熱々のお好み焼きと、目の前にあるハルの無邪気な笑顔が、陽介の心にじんわりと温かい灯りを点してくれていた。

 

お腹を満たし、すっかり打ち解けた二人は、再びお爺ちゃんのタクシーに乗り込んで坂道を登っていた。

向かった先は、玖珠町のシンボルとも言える「伐株山(きりかぶさん)」。その名の通り、巨大な樹木の切り株のような、頂上が平らに削られた不思議な形をした山だ。

 

山頂の駐車場でタクシーを降りると、そこには山の頂とは思えないほど開けた空間が広がっていた。下から見上げていた平らなシルエットとは違い、実際の地形にはなだらかな起伏がある。眼下に町を一望できる土手の縁へ向かって、ゆるやかな下り坂が続いていた。

 

「うわ……すごいな」

 

吹き抜ける春の強い風に目を細めながら、陽介は感嘆の声を漏らした。

誘われるようにその下り坂を歩き、土手の縁に立つと、眼下には玖珠の盆地がパノラマのように広がっていた。空がやけに近く感じる。

今朝、全てに行き詰まって絶望していた角牟礼城跡よりも、ずっと高く開けた場所。あの時、一人で膝を抱えていた自分が、ひどくちっぽけな点のように思えた。

 

自分を縛り付けていた完璧主義も、他人に認めてもらいたいという執着も、この広大な景色と風の中では、ただの埃のように吹き飛んでいく気がした。

 

「陽介さん!」

 

不意に、少し離れた場所から明るい声が響いた。

振り返ると、眼下に町が見渡せる切り立った土手の縁に、ハルが立っていた。

 

クラシカルで落ち着いたたたずまいの彼女が、今は山の下から吹き上げる強い風にプリーツスカートを大きく煽られながら、土手の縁ギリギリで両手を真横にピンと広げている。

まるで、空に飛び立とうとする鳥か、あるいは綱渡りを楽しむ子どものように。

 

「ほら、見てください! ここに立つと、風の通り道がわかるんですよ! すごい風。……ふふっ、鳥になったみたいでしょう?」

 

琥珀のネックレスが陽光を反射してきらきらと光り、黒髪が春の風に激しく舞う。その無防備で無邪気な笑顔は、大正時代から来たような神秘的な女性というより、年相応の、ただの明るく愛らしい一人の少女のようだった。

 

「おいおい、危ないぞ! 落ちるなよ!」

陽介は慌てて駆け寄りながらも、顔の筋肉が自然と緩んでしまうのを止められなかった。

 

「ふふっ、大丈夫です! 私、こう見えて身軽なんですから」

 

吹き上げる風を全身に受けながら振り返って、ハルは太陽のように笑った。

青い空と、緑の草原。そして、切り立った土手の縁で鳥のように両手を広げて笑う、琥珀色の瞳の君。

 

その景色は、陽介の脳裏に、まるで一枚の鮮やかな絵画のように焼き付いた。

ずっとモノクロームだった自分の人生に、これほどまでに強烈で、美しい色彩が入り込んでくるなんて、昨日の夜までの自分なら絶対に信じなかっただろう。

 

陽介は彼女のすぐそばまで歩み寄り、共に吹き抜ける風を感じながら微笑み返した。

もう、一人で戦う必要はない。誰かに頼り、一緒に笑い合えることの豊かさを、彼女が教えてくれたのだから。

 

伐株山を下りる頃には、玖珠の空は燃えるような茜色に染まっていた。

お爺ちゃんのタクシーに別れを告げ、二人は駅へ向かってゆっくりと歩いていた。町全体が、夕暮れ特有のノスタルジックな空気に包まれている。

 

「最後にもう一つだけ、見ていただきたい景色があるんです」

 

ハルが立ち止まったのは、駅から少し歩いた町外れ、少し開けた場所だった。

彼女の視線の先には、夕日を背にしてそびえ立つ扇形の巨大なコンクリート建築――「旧豊後森機関庫」があった。

放射状に並ぶ車庫と、機関車の向きを変える巨大な鉄の転車台。最盛期には25両もの蒸気機関車を擁し、幾筋もの黒煙を上げていたという。かつて九州の鉄道の要衝として鉄と石炭の匂いを漂わせていたその場所は、今は役目を終え、静かな眠りについている。

そして、転車台の前には一台の漆黒の蒸気機関車が、まるで時の流れから取り残されたようにひっそりと佇んでいた。

 

「……立派なもんだな。あんなに大きな施設が残ってるなんて」

 

陽介が感嘆の声を漏らして隣を見ると、ハルは何も答えない。

先ほどまで伐株山の上で、風を受けて無邪気に笑っていた彼女の姿はそこになかった。

 

夕風に黒髪を揺らす彼女は、ただ静かに、遠くの蒸気機関車を見つめている。

その琥珀色の瞳の奥に浮かんでいたのは、遠い昔の愛しい記憶を愛しむような優しさと、そして――今にも泣き出してしまいそうな、透き通るような哀しみだった。

 

胸元で揺れる琥珀のネックレスが、夕日を受けて微かに明滅しているように見える。

 

「……あの子はもう、自らの足で走ることはありません」

 

独り言のように、風に溶けて消え入りそうな声だった。

 

「鉄の体は冷たくなり、煙を上げることもない。……でも、こうして誰かの記憶の風景の一部として留まることができれば、それはきっと、幸せなことなのでしょうね」

 

どこか自分自身に言い聞かせるような、ひどく儚い響き。

その横顔を見た瞬間、陽介の胸の奥が、ギリッと音を立てて締め付けられた。

 

今日一日、彼女の温かな案内に救われ、無邪気な笑顔に惹かれていた自分がいる。冷え切っていた自分の心に、彼女が鮮やかな色を落としてくれたのだと、はっきりと自覚していた。

だが同時に、陽介は本能的に感じ取っていた。

 

この大正時代から抜け出してきたような不思議な女性は、自分などには想像もつかないほど、深く、哀しい秘密を抱えているのではないか、と。

 

「……ハルさん」

 

思わず伸ばしかけた陽介の手は、空を切った。彼女と自分の間には、目には見えないけれど、決して越えられない途方もない「時間」の壁があるような気がして、どうしても触れることができなかった。

 

茜色の空の下、遠くでカラスが鳴いた。

陽介はただ、夕日の中で幻のように佇む彼女の横顔から、目を逸らすことができなかった。

第3章:二人の時間と、忍び寄る別れ

 

祖父が残した古い空き家の土間には、真新しい木くずの心地よい匂いが漂っていた。

かつて、完璧な数字だけが並んだ「カフェ開業事業計画書」が広げられていたテーブル。そこには今、カンナやノミ、そして鉛筆で何度も線を引き直した手描きの図面が転がっている。

 

「木っちゅうもんは生き物やけんな。自分のペースで、急がず木と対話しながら作ればいいんよ」

 

頭を下げて指南を仰いだ親戚の大工の言葉を思い出しながら、陽介は手元の板に丁寧に紙やすりをかけていた。

都市にいた頃の彼なら、迷わず業者に発注し、最短ルートで無駄のない内装を完成させていただろう。だが、今の陽介は違った。効率やスピードという窮屈な物差しを手放し、自らの手で少しずつ、この空間に温かみを吹き込んでいくことを選んだのだ。

 

いつ店をオープンできるかは、まだわからない。

けれど、それでよかった。焦らず、自分が本当に納得できる空間を、自分のペースでやってみようと心から思えていた。

 

部屋の隅に置かれた大きなスピーカーからは、心地よいLo-Fi Hip Hopのビートが控えめに流れている。深みのある音が、温かくノスタルジックなトラックと重なり合い、深夜の静寂に優しく溶け込んでいく。

 

以前は無音の部屋で、パソコンの画面から発せられる青白い光と数字の羅列に息を詰まらせていた。それが今では、木の確かな手触りと穏やかな音楽に包まれながら、ものづくりの純粋な喜びに浸っている。

 

ふと、ヤスリを動かす手を止め、陽介は息を吹きかけて木くずを払った。

なめらかになった木肌を指先でそっと撫でる。プロの仕事には遠く及ばない不格好な仕上がりかもしれないが、そこには確かに彼自身の体温が宿り始めていた。

 

(……ハルさんが見たら、なんて言うかな)

 

自然と、あの琥珀色の瞳と、柔らかな微笑みが脳裏に浮かぶ。

彼女が教えてくれた「手仕事の温もり」と「時間をかけることの豊かさ」。それを自分なりに形にしようともがくこの不器用な時間が、今の陽介にとってはひどく愛おしかった。

 

カンナ屑が散らばる土間に、ふわりと温かいほうじ茶の香りが漂ってきた。

 

「陽介さん、少し休憩にしませんか?」

 

入り口の引き戸の向こうから、鈴を転がすような声がした。

作業の手を止めて振り返ると、ハルがお盆に急須と二つの湯呑み、それに地元の和菓子屋で買ってきたらしい小さな包みを乗せて立っていた。

いつものクラシカルな装い。そして胸元には、彼女の柔らかな鼓動に合わせるように、琥珀のネックレスが微かな光を湛えている。

 

「ありがとう、ハルさん。ちょうど一息つきたいところだったんだ」

 

陽介は手についた木くずを払い、即席で作った木のテーブルの上を片付けた。

ハルが丁寧に淹れてくれたほうじ茶の湯気が、冷え込み始めた初冬の空気に白く溶けていく。一口飲むと、その香ばしさと優しい温かさが、ヤスリがけで疲れた陽介の身体の隅々まで染み渡った。

 

「……ずいぶん、形になってきましたね」

 

ハルは湯呑みを両手で包み込むように持ちながら、壁際に立てかけられた新しい木の棚や、不格好ながらも温かみのある手作りのカウンターを愛おしそうに見回した。

 

「ああ。プロの仕事には遠く及ばないけど……でも、自分の手で少しずつ空間を作っていくのが、こんなに楽しいとは思わなかったよ」

 

陽介は照れくさそうに頭を掻き、真新しい木肌をそっと撫でた。

 

「あの時、ハルさんが教えてくれたんだ。『時間をかけ、想いを込められたものには命が宿る』って。俺は今、それを自分なりに形にしようとしている」

 

その言葉に、ハルの琥珀色の瞳がパッと輝き、花が綻ぶような微笑みがこぼれた。

 

「陽介さんの想いは、きっとこの場所に、温かい命を吹き込んでくれますよ。私は……そう信じています」

 

彼女の透き通るような眼差しが、陽介を真っ直ぐに射抜いた。

その優しさに触れた瞬間、陽介の胸の奥で、ずっとくすぶっていたひとつの決意が、はっきりとした形を伴って燃え上がった。

 

彼は湯呑みをテーブルに置き、姿勢を正してハルに向き直った。

 

「ハルさん」

 

普段より一段低い、真剣な声の響きに、ハルも少し驚いたように瞬きをした。

 

「俺は、ここで『スチーム・ロコモーション』という名前のカフェを開く。効率でも数字でもなく、ここに立ち寄る人たちが、温かいアナログな時間を過ごせるような……そんな場所にしたい」

 

陽介は言葉を区切り、深く息を吸い込んだ。

 

「でも、俺一人じゃ、きっとその空間は完成しない。……俺の作ったこの店に、君のその温かい空気を、どうか満たしてほしい。一緒に、このカフェをやってくれないか」

 

静寂が降りた土間で、スピーカーから流れるLo-Fiのビートだけが、陽介の早鐘を打つ鼓動のように響いていた。

 

ハルは一瞬、目を丸くして言葉を失った。

やがて、その琥珀色の瞳から、ポロリと一筋の美しい雫がこぼれ落ちた。それは悲しみの涙ではなく、彼女の心の底から溢れ出した、純粋な喜びの証だった。

 

「……私で、いいんですか?」

 

震える声で問い返すハルに、陽介は力強く頷いた。

 

「君がいい。君じゃなきゃ、駄目なんだ」

 

その言葉を聞いた瞬間、ハルは両手で顔を覆い、子供のように声を上げて泣き笑いした。

「……はい。私でよければ、喜んで」

 

その涙まじりの笑顔は、陽介がこれまで生きてきた中で見たどんな景色よりも、圧倒的に美しかった。

二人の心が、一つの確かな未来に向かって完全に重なり合った瞬間だった。

 

 

ハルと思いが通じ合った翌日。

陽介は、どこか足取り軽く、角牟礼城跡の山道を登っていた。

 

冷たい初冬の風が木々を揺らしていたが、陽介の胸の奥には、ハルが淹れてくれたほうじ茶のような温かな熱が確かに灯り続けていた。

『私でよければ、喜んで』――彼女の涙まじりの笑顔を思い出すだけで、自然と口角が緩んでしまう。

 

カフェの内装作りも、彼女という明確な「パートナー」の存在を得たことで、これまで以上に捗りそうだった。

 

(……あいつに、報告でもしてやろうかな)

 

ふと、計画に躓いて、自分が一人で息を詰まらせていた時に出会った、あのキジトラの猫のことを思い出した。

自分より大きなボス猫にボロボロに負けても、全く怯むことなく「いずれここを統べる」という威厳を放っていた、あの『殿猫』。今の陽介なら、あの時より少しはマシな顔で、あいつの前に立てる気がしたのだ。

 

息を切らして本丸跡の広場にたどり着くと、色褪せた苔が生す石垣の上に、見覚えのあるキジトラの姿があった。

驚いたことに、その両脇には、一回り体の大きな黒猫と茶トラの二匹が、まるで護衛の武将のように控えている。

 

「……おいおい、本当に手駒を集めてやがったのか」

 

陽介は呆れ半分、感心半分で声をかけた。

殿猫は陽介の姿を認めると、短い尻尾をパタンと一度だけ打ち鳴らし、静かに見下ろしてきた。その眼光の鋭さと、王者のような佇まいは健在だった。

 

「お前のおかげで、少しは前に進めた気がするよ。……一緒に店をやるパートナーも、見つかったしな」

 

陽介は照れ隠しのように石垣の根元に腰を下ろし、独り言のようにポツリとこぼした。ハルのこと、カフェのこと、そして自分が少しずつこの町に根を下ろし始めていること。猫相手に話すのは少し滑稽だと思いながらも、なぜかこの殿猫には、不思議と素直に話を聞いてもらえる気がしたのだ。

 

「……ハルっていうんだ。不思議な人でさ。大正時代から抜け出してきたみたいに古風で、でも、笑うとすごく可愛くて――」

 

陽介がそこまで言いかけた時だった。

 

「……あの子は、まだここに留まっていたのか」

 

不意に、地を這うような、重厚で深みのある、威厳に満ちた男の声が、静寂の森に響き渡った。

 

陽介は弾かれたように顔を上げた。

周囲には誰もいない。声の主は間違いなく、目の前の石垣の上に鎮座するキジトラ――殿猫だった。

 

「えっ……? 今、喋った……?」

 

混乱する陽介をよそに、殿猫は両脇の武将猫を顎で下がらせると、ゆっくりと石垣の縁まで歩み寄ってきた。その瞳の奥には、単なる獣を超越した、果てしなく長い時間を生きてきた者特有の、深い知性と憂いが宿っていた。

 

「我は、かつてこの角牟礼城を治めし森氏の魂の成れの果て。山の神の気まぐれか、こうして再びこの地を統べるため、毛皮を纏って戻ってきたに過ぎん」

 

殿猫は静かに、しかし有無を言わさぬ威厳で語り出した。

 

「それよりも、小僧。貴様、あの娘と関わるのはやめておけ」

 

「やめておけって……どういう意味だ?」

 

突然のファンタジーな展開に頭が追いつかないながらも、ハルのことを否定された陽介は、反射的に語気を強めた。

 

しかし、殿猫の次の言葉は、陽介の反発を氷のように凍りつかせた。

 

「あれは、貴様らと同じ時間を生きる者ではない。……あれは、深入りすればするほど、貴様にも、そして何より『あの子自身』にも、取り返しのつかない不幸を招くぞ」

 

「不幸……?」

 

「……己の存在を賭してでも、人に焦がれるか。愚かな魂よ」

 

殿猫はそれ以上は何も語らず、哀れむような一瞥を陽介に投げかけると、二匹の家臣を引き連れて、音もなく茂みの奥へと姿を消した。

 

冷たい初冬の風が吹き抜け、枯れ葉がカラカラと音を立てて転がっていく。

陽介は一人、石垣の前に立ち尽くしていた。

ハルと心が通じ合ったばかりの温かい幸福感に、得体の知れない冷たい影が、ひたひたと忍び寄っていた。

陽介が角牟礼城跡で冷たい宣告を受けていた頃。

旧豊後森機関庫では、冷たい冬の風が吹き抜けていた。

 

「ハルちゃん、最近なんだかぼんやりしてるね」

「もしかして、恋でもした?」

 

案内所のストーブの前で、同僚のスタッフがからかうように笑った。

「えっ……そ、そんなことありませんよ」

ハルは慌てて微笑み返したが、その頬はほんのりと桜色に染まっていた。無理もない。陽介から「一緒にカフェをやってほしい」と言われたあの瞬間から、彼女の胸の奥では、まるで春が来たかのように温かい感情がずっと渦巻いているのだから。

 

「顔、赤いよ。ほら、少し休憩しておいで。温かいものでも飲んでさ」

「……ありがとうございます。お言葉に甘えますね」

 

同僚の気遣いに頭を下げ、ハルは外の自動販売機へと向かった。

冷たい風に身をすくめながら、愛用のがま口財布を取り出す。小銭を探りながら、ふと、陽介が不器用に木を削る横顔や、ほうじ茶を飲んで笑い合ったあの夜の記憶が蘇ってきた。

(陽介さんの、あの温かいお店に、私が……)

 

その想像だけで、泣きたくなるほど愛おしい気持ちが胸を満たしていく。

硬貨を指先でつまみ出し、自販機の投入口へ伸ばした、その時だった。

 

――チャリン。

 

虚しい金属音が、冬の乾いたアスファルトに響いた。

「あっ……」

手元が狂ったのかと思い、ハルは足元に転がった百円玉を拾おうとしゃがみ込んだ。しかし、硬貨に伸ばした自分の右手が、そこにあるはずの硬貨を『すり抜けて』しまった。

 

ハルは息を呑み、自分の手を見つめた。

冬の日差しに透かされた彼女の指先は、まるで磨りガラスのように背景の景色と同化し、うっすらと向こう側が透けて見えていた。

 

「……え?」

 

血の気が引くのを感じた。

何度瞬きをしても、指先の輪郭は曖昧なままだ。胸元の琥珀のネックレスが、まるで弱った心臓のように、明滅を繰り返している。

未知の恐怖に襲われたハルは、落ちた小銭を拾うことも忘れ、逃げるように事務所へと駆け戻った。そして、早退を申し出ると、逃げるように機関庫を後にした。

 

***

 

自分がどうなってしまうのか、どうしてしまったのか。

その答えに向き合うのが恐ろしくて、ハルはすべてを湯に流すように、町外れの温泉施設へと思わず足を向けていた。

 

そこは気分転換やささやかなご褒美として、彼女がたまに訪れる馴染みの場所だ。洞窟風呂、岩風呂、ひのき風呂、樽風呂――十二種類もの趣向を凝らした内湯の中から、今の彼女は吸い寄せられるように「けやきの湯」へ向かった。

薄暗い浴場の中央には、樹齢二百年を超える巨大な欅(けやき)が、まるで主のようにどっしりと根を下ろしている。大木が見守るその湯船に、ハルは身を隠すように深く、肩までお湯に浸かった。

 

立ち上る湯気と、静かな水音。

目を閉じ、深呼吸をして震えを鎮めようとする。

 

その時だった。

頭上に広がる巨大な欅の枝から、一滴の雫が、まるで樹木が流した涙のようにハルの額に落ちた。

 

ピシャン――。

 

その小さな衝撃と同時に、ハルの脳裏に、強烈な光と共に「ある記憶」が走馬灯のように駆け巡った。それは、人間としての記憶ではない。

自分が『何者』としてこの世界に顕現したのかという、世界の理(ことわり)そのものだった。

 

――『命の素(琥珀)』。

――『依り代となる仮の身体』。

――そして、『公(おおやけ)に尽くし、いつか本物の人間になりたいと願う強い思い』。

 

かつて、人々を乗せてこの町を走り抜けた蒸気機関車の誇り。その強い思念が奇跡を起こし、人間の姿を借りて顕現したのが「ハル」という存在だった。

案内人として町の人々や旅人に尽くすこと。その「公への献身」こそが、彼女をこの世界に繋ぎ止める絶対の契約条件だったのだ。

 

しかし今、彼女の心はどうだ。

案内人としての使命よりも、ただ一人、陽介という人間の傍にいたい。彼と共に笑い、彼のカフェで、彼のためだけの時間を生きたい。

その強すぎる「私的な愛」は、かつて彼女を顕現させた「公への献身」という契約を根底から書き換える、明らかな『契約違反』だった。

 

額を伝う雫と共に、ハルは全てを理解した。

陽介を愛すれば愛するほど、人間になりたいという純粋な願いは「彼と結ばれたい」という個人的な執着に変わり、彼女を形作っていた命の素の力は失われていく。

あの時、指先が透けたのは気のせいではない。彼女の存在は、すでにこの世界から消えかかっているのだ。

 

「……そんな、残酷な」

 

湯船の中で、ハルは自分の両肩をきつく抱きしめた。

ようやく見つけた、たった一つの温かい居場所。彼と共に生きる未来を夢見た瞬間に、その愛こそが自分を消滅させる毒になるだなんて。

 

けやきの湯の静寂の中、ハルの声にならないむせび泣きだけが、誰に届くこともなくただ湯気に溶けていった。

 

「……おかしいな」

 

陽介は、自作したカフェのカウンターで、ノコギリを持ったまま小さく呟いた。

ハルに「一緒に店をやってほしい」と想いを伝え、彼女が涙を流して頷いてくれたあの日から、もう一週間が経とうとしている。

 

あれほど頻繁にお茶や差し入れを持って様子を見に来てくれていたハルが、あの日を境に、ぱったりと姿を見せなくなったのだ。

 

最初は、案内所の仕事が忙しいのだろうと思っていた。

しかし、思い切って案内所や旧豊後森機関庫へ足を運んでみても、「今日は非番です」「さっきまでいたんですが、急用で帰りました」と、まるで見計らったようにすれ違ってしまう。

一度だけ、町外れのスーパーの駐車場で彼女の後ろ姿を見かけたが、陽介が声をかける前に、彼女は足早に路地へ姿を消してしまった。

 

――明らかに、避けられている。

 

陽介は手元の木材から目を離し、冷たくなったコーヒーを一口飲んだ。

理由が全く分からなかった。あんなに嬉しそうに頷いてくれたのに。心が通じ合ったはずなのに。

何か気に障ることをしてしまっただろうか。それとも、あの時の言葉はただの同情で、後になって重荷に感じてしまったのだろうか。

 

完璧主義の鎧を脱ぎ捨て、やっと誰かを心から信じ、頼ることができるようになった矢先の出来事。陽介の心に、再び冷たい孤独の影が落ち始めていた。

あの時、角牟礼城跡で殿猫が言った『あれはやめておけ、不幸を招くぞ』という不吉な忠告が、嫌な予感となって脳裏にこびりついて離れなかった。

 

***

 

同じ頃。

ハルは、陽介の家から少し離れた神社の境内で、一人膝を抱えていた。

吐き出す息は白く、冬の寒さが身に染みるはずなのに、彼女の身体はどこか現実感がなく、ふんわりと宙に浮いているような奇妙な感覚に陥っていた。

 

(……陽介さん、ごめんなさい。本当に、ごめんなさい)

 

彼女は、胸元の琥珀のネックレスをきつく握りしめた。

その光は、あの日けやきの湯で真実を知った時よりも、さらに弱々しく、今にも消え入りそうに明滅している。

そして、彼女の左手は――手首から先が、すでに半透明に透け、向こう側の神社の石段がうっすらと見えている状態だった。

 

『私的な愛』に傾いたことで、顕現の契約は破綻しつつある。

このまま陽介のそばにいて、彼を深く愛し続ければ、彼女は遠からず完全に存在を失い、この世界から消滅してしまう。

 

だから、離れなければならなかった。

自分の存在が消えてしまえば、ようやく前を向いて歩き始めた陽介を、再び深い絶望の淵に突き落としてしまうことになる。彼を悲しませないためには、彼をこれ以上愛さないように、物理的に距離を置くしかなかった。

 

(陽介さんの顔を見なければ。声を聞かなければ。そうすれば、少しずつ元の『案内人としての私』に戻って、消えずに済むかもしれない……)

 

そう自分に言い聞かせ、必死に彼を避けてきた。

だが、それは全くの逆効果だった。

 

会えない時間が長くなるほど、陽介の不器用な優しさや、木を削る真剣な横顔、そしてあの夜の「君じゃなきゃ、駄目なんだ」という真っ直ぐな言葉が、何度も何度もフラッシュバックする。

理屈で感情に蓋をしようとしても、彼を想う気持ちは膨れ上がるばかりだった。一度走り出した蒸気機関車が急には止まれないように、彼女の恋もまた、もう誰にも、自分自身にさえブレーキをかけることはできなかった。

 

「……会いたい」

 

神社の静寂の中、ハルの口からポロリと本音がこぼれ落ちた。

陽介に会いたい。あの温かい土間で、彼の淹れたコーヒーを飲みながら、一緒に笑い合いたい。

たとえそれが、自分の命を削る行為だとしても。

 

その強烈な「私的な願い」を口にした瞬間、ハルの身体が淡い光に包まれ、今度は両足のつま先が、ふっと薄れ始めた。

 

消失のスピードが、明らかに加速している。

ハルは絶望的な表情で、透けゆく自分の手足を見つめた。もう、残された時間はほとんどないということを、彼女自身が一番よく理解していた。

 

***

 

カフェの形が少しずつ見え始めた空間。陽介はスピーカーの取り付けを終え、小さく息をついた。

ふと落とした視線の先。ハルと穏やかにお茶を飲んだあの木のテーブルの上に、見慣れない白い封筒がぽつんと置かれている。

 

指先に残る木屑を払いながら、それに手を伸ばす。なぜか、ひどく嫌な胸騒ぎがした。

僅かに震える指で封を開ける。中に入っていた便箋には、ハルらしい丁寧で優しい字が並んでいた。これまでの感謝。そして――どうか自分を探さないでほしいという、切実な願いが綴られていた。

 

文字を追うごとに、陽介の血の気が引いていく。手紙を握りしめる力が制御できず、紙が悲鳴のようにくしゃりと歪んだ。心臓を直接鷲掴みにされたような痛みが胸を貫く。

 

「くそっ……! どこに行ったんだよ、ハルさん……!」

 

外へ飛び出すと、春先の冷たい風が容赦なく陽介の頬を叩きつけた。

玖珠町中を走り回り、息も絶え絶えになった夕暮れ時。いつしか空は灰色の雲に覆われ、ポツリ、ポツリと冷たい雨が落ちてきた。

雨空を見上げた瞬間、陽介の脳裏に「ある景色」が閃いた。

 

――『あの子はもう、自らの足で走ることはありません』

 

いつか二人で町を歩いた日の夕暮れ。遠くの蒸気機関車を見つめながら、今にも泣き出しそうな、ひどく哀しい横顔を見せていた彼女の姿。

陽介は弾かれたように駆け出した。向かった先は、町外れにそびえ立つ扇形の巨大なコンクリート建築。「旧豊後森機関庫」だった。

 

息を切らして敷地内に飛び込む頃には、雨は強風と相まって嵐のように荒れ狂っていた。時刻は十八時を回り、辺りはすでに薄暗い。灰色の雲を背に黒々としたシルエットを落とす機関庫と、中央の転車台の前に眠る漆黒の蒸気機関車。陽介はずぶ濡れになりながら敷地内を必死に探し回ったが、彼女の姿はどこにもない。

 

(残るは、あの中だけだ――)

 

陽介は意を決し、立ち入り禁止の柵を迷わず越えて、廃墟と化した機関庫へと足を踏み入れた。

 

色褪せたコンクリートと、錆びた窓枠。吹き荒れる風が、無数に割れた窓ガラスから時折冷たい雨のしぶきを運び込んでくる。

 

雨音と風の唸りだけが響く暗がりの中、目を凝らして進むと、重厚なコンクリートの奥深くに、ぽつんと佇む人影が見えた。

 

「ハルさん……っ!!」

 

陽介の叫び声に、立っていた彼女の肩がビクッと跳ねる。駆け寄ろうとする陽介に向けて、ハルが悲痛な声を上げた。

 

「来ないでッ!!」

 

陽介が好きでたまらない。けれど、好きになれば自分が消えてしまう。消えてしまえば、陽介を一人にして、深く傷つけてしまう。拮抗する感情に引き裂かれそうになりながらも、彼女は自身の終わりが確実に来ていることを感じ取っていた。

彼女の身体は、まるで古い幻灯機が映し出す映像のように、向こう側のコンクリートの壁が『透けて』見えていたのだ。足元はすでに輪郭を失い、冷え切った春先の空気に溶けかかっている。

 

陽介が、たまらずもう一度声をかけようとした。

その時だった。

 

突風が吹き込み、頭上の老朽化した窓枠が大きな音を立てて外れた。無数の鋭いガラス片が、ハルの頭上へと降り注ぐ。

 

「あぶないっ!!」

 

陽介は考えるよりも早く地を蹴り、ハルを庇うようにその小さな身体へ覆いかぶさった。

直後、鈍い衝撃音と共に、陽介の背中や肩に鋭い痛みが走る。

 

「……っ!」

ハッとして我に返ったハルは、陽介が身を挺して自分を守ってくれたことに気づいた。陽介はよろめきながら身体を起こし、血の気を失った顔でハルを見つめる。

 

「大丈夫、か……?」

「陽介さん……血が……!」

 

ハルが無事であることを確認すると、陽介はふっと安堵の微笑みを浮かべ、そのまま力なく冷たい床へと崩れ落ちた。急速に意識が遠のいていく。

 

「嫌……陽介さん、お願い、目を開けて!」

ハルは慌てて出血を止めようと、陽介の傷口に手を押し当てた。しかし、陽介に完全に心を開いてしまった彼女の両手はすでに実体を失い、無情にも彼の身体を『すり抜けて』しまった。

 

消えかかった今の身体では、手当をすることも、誰かに助けを呼ぶこともできない。

血を流し、冷たくなっていく陽介を前にして、ハルは悟った。先ほどまでどうしていいか分からず泣きそうに歪んでいた彼女の顔から迷いが消え、明確な目的を持った凛とした表情へと変わる。

 

乱れていた着衣を正し、ハルは、陽介の傍らに綺麗に座り直した。

 

薄暗い機関庫の闇の中、彼女の身体の輪郭は雨の湿気に溶け出すように淡く透け、背後の冷たいコンクリートが微かに透けて見えそうに揺らいでいる。

ハルは、今にも霧散してしまいそうなその輪郭を自らの意志で必死に繋ぎ止めながら、胸元で弱々しく光る「琥珀のネックレス」を外し、陽介の首へとかけた。

 

琥珀に両手を重ね、ハルは祈るようにそっと目を閉じた。

 

***

 

――気がつくと、陽介は不思議な光に包まれた静かな空間に立っていた。

痛みも、嵐の寒さもない。

目の前には、いつものように穏やかに微笑むハルが立っていた。

 

『探しちゃ駄目って、言ったのに』

 

咎めるような言葉とは裏腹に、彼女の声はどこまでも優しく、深い愛情に満ちていた。

陽介は震える足で歩み寄り、彼女の肩を掴もうと両手を伸ばした。しかし、ハルは哀しい微笑みを浮かべたまま、すっと後ろへ一歩退いた。彼女の胸元でかつて温かい光を放っていた琥珀のネックレスは、今はまるで命の灯火が尽きかけるように、頼りなく明滅を繰り返している。

 

「どうして……どうして君が消えなきゃならないんだ」

悲痛な叫びを上げる陽介に、ハルは静かに首を振った。

 

『陽介さんのせいじゃありません。これは、私がルールを破ってしまった罰なんです。……私は、人間ではありません』

 

陽介は息を呑んだ。

あの時、角牟礼城跡で殿猫が放った『あれは、貴様らと同じ時間を生きる者ではない』という忠告が、鈍い痛みとなって蘇る。

 

『かつてこの町を走り、人々のために尽くした8620型蒸気機関車68623。彼女は皆に祝福されて去っていきましたが、私は整備の過程で失われ、この機関庫に取り残された……ただの一つのボルトでした』

 

ハルの背後に、漆黒の蒸気機関車の幻影が浮かび上がる。

 

『人の役に立つという使命を全うできず、ただ人に役立ちたい、人間になりたいと焦がれ続けた鉄の欠片。その思いが、青い月の夜、山の神様から零れ落ちた命の素(琥珀)と重なり、私にこのかりそめの姿をくれました。案内人としてこの町の人々に尽くすこと……それが、私がこの世界に留まるための絶対の契約だったんです』

 

ハルは琥珀色の瞳からポロリと涙をこぼし、それでも陽介を真っ直ぐに見つめた。

 

『……でも、私は出会ってしまった。独りぼっちで、不器用で、でも誰よりも温かい心を持った、迷子のあなたに。案内人としての使命よりも、ただ一人の人間の傍にいたいと願ってしまった。……陽介さん、あなたを愛してしまったんです』

 

『君じゃなきゃ、駄目なんだ』

あの日、陽介が真っ直ぐに伝えた言葉。

それが、人々に尽くすという彼女の純粋な「誓い」を、ただ一人を想う「愛」へと完全に書き換えてしまったのだ。

 

『あなたと結ばれ、あなたと共に生きたいと願った瞬間に、私は契約を破りました。だから、もう留まる力がないんです。私があなたを深く愛すれば愛するほど、私は消えてしまう』

「……嘘だろ。そんなの、あんまりじゃないか……っ!」

 

陽介は両手で顔を覆い、膝から崩れ落ちた。

自分が彼女を求め、彼女がそれに応えてくれたからこそ、彼女の命を削り、世界から消し去ろうとしているだなんて。

 

『陽介さん、泣かないで』

透けかけた冷たい手が、陽介の頬にそっと触れた。物理的な感触はない。ただ、微かな春の風のような温もりだけが、そこにあった。

『私、ちっとも後悔してないんですよ。あなたに恋をして、一緒に笑い合えた時間が……私がこの世界に存在したなかで、一番の奇跡だったから』

 

ハルの身体が、腰のあたりからまばゆい光の粒子となって溶け出し始めた。

 

『さようなら、私の愛しい人。……どうか、温かいお店を作ってくださいね』

「待ってくれ! ハル……ハルッ!!」

「あああああぁぁぁぁっ……!!」

 

陽介が必死に腕を伸ばし、その身体を抱きしめようとした――。

 

***

 

冷たいコンクリートの上に横たわる陽介の傍らで。

ハルは、自身を形作っていた残るすべての命の素の力を限界まで凝縮し、一瞬の強い輝きへと変化させた。

 

その瞬間、辺りは目を開けていられないほどの命の輝きに照らされた。

ハルの身体は光の粒子となって機関庫の闇に溶け込み、陽介の深い傷口を温かな光が包み込んでいく。そして後には、ネックレスの紐と、彼女の本来の姿である、一つの古びた『ボルト』だけが残された。

 

陽介は、深い昏睡の中にいた。

 

やがて夜が明け、朝の陽光が機関庫の中に差し込んできた時。

外の嵐は嘘のように止み、雲一つない青空が広がっていた。

 

「……っ」

陽介は、頬を撫でる朝日でゆっくりと目を覚ました。

「ハル……ッ!!」

 

跳ね起きて辺りを見回したが、そこには誰もいなかった。

背中や肩に触れるが、傷は一つもなく、痛みも完全に消え去っている。外には、朝露に濡れて銀色に輝く草原と、朝日に照らされて眩しく光る転車台が見えた。

 

何が起きたのかは、夢の中で聞いた彼女の言葉で痛いほど理解していた。

陽介は震える手で、足元のコンクリートの床に落ちていた「一つの錆びたボルト」を拾い上げた。ずっと彼女を縛り付け、そして最後に彼女が残していった、愛の証。

 

陽介はそのボルトを、残されたネックレスの紐で結び、自分の首から提げた。

冷たい鉄の感触が胸元に触れた瞬間、堪えきれなくなった涙が、陽介の瞳から止めどなく溢れ出した。

第4章:奇跡のボルトと、青い月の夜

 

あの嵐の夜、旧豊後森機関庫でハルが光となって消えてから、数年の月日が流れていた。

玖珠町には再び、柔らかな春の陽気が訪れている。

 

「よし、今日の作業はここまでにするか」

 

陽介は額の汗を拭い、木屑の舞う店内を見渡した。

彼の手作りカフェ『スチーム・ロコモーション』は、いよいよ完成の形を見せつつあった。まだオープンには至っていないが、問題があるわけではなかった。

 

何より陽介には、カフェ作りと同じくらい大切な「もう一つの仕事」があった。

空いた時間を使って、観光案内所でガイドとして働いているのだ。かつてハルが、この町を訪れる迷子たちに寄り添っていたように。彼女が愛し、彼女が生きたこの町の魅力を伝えることが、陽介にとって彼女の遺志を継ぐ唯一の方法だった。

 

陽介は作業着の胸元を探り、革紐で結ばれた「一つの錆びたボルト」をそっと握りしめる。

冷たいはずの鉄の感触は、いつだって陽介の心に、春の風のような微かな温もりを与えてくれていた。

 

***

 

翌日の午前中。陽介が観光案内所のカウンターの奥で資料を整理していると、入り口のドアベルが鳴った。

入ってきたのは、キャメル色のスプリングコートを着た、現代的で明るい雰囲気の若い女性だった。彼女はキョロキョロと周囲を見回した後、受付のスタッフに声をかけた。

 

「あの、すみません。パーソナル観光案内をお願いしたいんですが……」

「はい、承ります。では、こちらのお申し込み用紙にご記入をお願いします」

 

少し離れた場所で、陽介は何気なくそのやり取りを聞いていた。

 

「ええと……サイトウ様、ですね。ご希望のコースはございますか?」

 

スタッフは申し込み用紙に書かれた「斎藤 旾」という見慣れない漢字が読めず、苗字だけで呼びかけた。女性も特に気にする素振りを見せず、少し不思議そうな顔をして頷いた。

 

「あ、はい。お任せで……なんとなく、この町の色々な景色を見てみたくて」

 

彼女自身、自分が何を求めてこの玖珠町までやって来たのか、はっきりと分かっていなかったのだ。ただ、胸の奥で何かが「ここへ行かなければ」と強く叫んでいただけで。

 

「星野くん、悪いんだけど、ご案内お願いできる? 他のタクシーが出払っちゃってて。えっと、お客様は……サイトウ、ジュンさん?かな……」

 

スタッフは手元の申し込み用紙を見ながら、自信なさげに首を捻って陽介に声をかけた。

 

「ああ、いいですよ。サイトウさんですね。個人タクシーのお爺ちゃんの手が空いてるか聞いてみます」

 

陽介はカウンターへ歩み寄り、女性に向かって頭を下げた。

「はじめまして。本日ご案内を担当する、星野と申します」

「はじめまして、斎藤です。急なお願いですみません、よろしくお願いします」

 

顔を上げた瞬間――陽介は、雷に打たれたように立ち尽くした。

「……あの、どうかしましたか?」

小首を傾げて微笑むその女性の瞳は、吸い込まれるような透き通る『琥珀色』をしていた。

髪型も服装も、口調も全く違う。大正時代から抜け出してきたようなあの古風な雰囲気もない。だが、その面影は、彼が一日たりとも忘れたことのない愛しい人に、あまりにも似ていたのだ。

 

「……いえ。なんでもありません。車を手配してきますので、少しお待ちください」

陽介は胸のボルトを服の上からそっと押さえ、早鐘を打つ鼓動を必死に沈めながら、足早に外へと向かった。

 

***

 

陽介は小走りで案内所を出た。すぐ近くにある個人タクシーの車庫へ向かう途中、見知らぬ黒い猫とすれ違ったが、急いでいた陽介は特に気には留めなかった。

 

一階がガレージ、二階が住まいになっている昔ながらの車庫の前では、お爺ちゃんが愛車のセダンの洗車と、ボンネットを開けての点検を並行して行っていた。

 

「お爺ちゃん、急で悪いんだけど、これから一人、お客さんを乗せてもらえるかな?」

「おや、陽介くん。もちろん構わんよ。ちょうど一通り見終わったところだ」

 

お爺ちゃんはボンネットを閉め、運転席に乗り込んでキーを回した。

キュルル、キュルル……。

しかし、セルモーターが乾いた音を立てるだけで、一向にエンジンが目覚める気配がない。

 

「おかしいねぇ。今朝までは絶好調だったんだが……」

 

お爺ちゃんが再びボンネットを開け、首を捻る。

「こりゃ駄目だ。プラグコードが一本なくなっとる。修理を呼ばんと動かんなぁ」

「そんな……斎藤さんを待たせてるのに」

 

陽介は頭を抱えた。

――彼らは知る由もなかったが、先ほどすれ違った一匹の黒猫が車庫の奥から音もなく舞い降り、素早く部品を抜き取って去っていたのだ。彼こそ角牟礼城跡に陣取る殿猫の命を受けた「忍猫」であった。

 

陽介は意を決し、案内所で待つ彼女のもとへ戻った。

 

「本当に申し訳ありません。手配したタクシーが故障してしまって……もしよろしければ、僕の軽トラでご案内してもよろしいでしょうか?」

「軽トラ? ふふっ、なんだか楽しそう! ぜひお願いします」

 

斎藤は嫌な顔一つせず、むしろ面白がるように目を輝かせた。

かくして陽介は、少し泥の跳ねた自分の愛車である軽トラの助手席に彼女を乗せ、春の玖珠町へと車を走らせることになった。

 

案内所に残されたスタッフは、申し込み用紙を見つめて首を傾げていた。

「このお名前、なんて読むんだろう? シュン? じゅん?」

そこへ、案内所の様子を見に来た個人タクシーのお爺ちゃんが、ひょいと用紙を覗き込んだ。

「おや、珍しい字だねぇ。これは『春』の古字だよ。ハル、って読むんだ」

「へぇ、ハルさん……素敵な名前ですね」

スタッフたちのそんな会話を、外に出た陽介が知る由もなかった。

 

***

 

軽トラの窓を開け放つと、柔らかな春の風が車内に流れ込んでくる。

助手席で景色を珍しそうに眺める斎藤の横顔に、陽介は何度もあの「琥珀色の瞳の女性」の面影を重ねてしまいそうになった。

だが、陽介は小さく頭を振り、その感情を無理やり心の奥底に押し込んだ。自分は案内人なのだから、個人的な感情を持ち込んではいけない。そう自分に強く言い聞かせながら。

 

案内ルートは、かつて自分が歩いた道を選んだ。

玖珠町役場のロビー。展示スペースに静かに並ぶ郷土玩具「きじ車」の前で、斎藤は足を止めた。

「……可愛い。なんだか、すごく人の手の温もりを感じますね」

 

昼食は、少し路地を入った先にある味わい深いお好み焼き屋だった。

「ご案内するような洒落た店じゃなくてすみません。でも、ここの豚玉は最高なんです」

 

熱々の豚玉が運ばれてくると、斎藤は「いただきます」と手を合わせ、小さく切り分けた一つを小皿にとると、「ふー、ふー」と一生懸命に息を吹きかけ始めた。

そして、程よく冷めた一口を頬張った瞬間、花が綻ぶように頬を緩ませた。

 

「んんっ! すごく美味しいです!」

彼女は満面の笑みを浮かべた後、ふと不思議そうに小首を傾げた。

「……あれ?」

「どうか、しましたか?」

「私、ここに来たのは初めてのはずなのに……なんだか、前にも同じようにして、誰かとすごく楽しくお好み焼きを食べたことがあるような気がして」

 

まるで遠い夢を思い出すような彼女の言葉。

その瞬間、陽介の胸元で、作業着の下に提げている「錆びたボルト」が、カッと熱を帯びたように感じた。

 

「っ……」

陽介は思わず胸元を押さえた。

「星野さん、どうしたんですか?」

「いえ……鉄板の熱で、ネックレスが少し温まっただけみたいです」

 

陽介は服の上からボルトをそっと撫でながら、何気ない風を装って誤魔化した。

斎藤の視線が、陽介の胸元に向けられる。

 

「星野さん、さっきから気になっていたんですけど……そのネックレス、なんだかすごく大切そうに触りますね。何か特別なものなんですか?」

 

陽介は服の中からボルトを出すと手のひらに載せながら、懐かしそうな表情をした。

 

「……ええ。とても、大切なものです。俺に、一番大切なことを教えてくれた人が、残していってくれたものだから」

 

陽介は静かに、ただ事実だけを答えた。

斎藤は「そうなんですね」と短く呟き、それ以上は踏み込んでこなかった。

 

(ただの偶然だ。)

 

陽介は鉄板の上のお好み焼きを見つめながら、自らを戒めた。

彼女が時折見せるまるでハルのような懐かしい表情は、すべては自分の未練が見せる幻なのだと。あの日、機関庫で光となって消えた彼女が戻ってくることなど、あり得ないのだから。

 

午後からの案内も、陽介は努めて冷静に、一人のガイドとして玖珠町の魅力を伝え続けた。

やがて、陽介は軽トラのハンドルを、最後の目的地へと向けた。

***

 

軽トラは、春の陽光が降り注ぐ山道をゆっくりと登り切った。

陽介が最後の目的地として選んだのは、かつてハルと共に訪れた二人の思い出の場所、「伐株山(きりかぶさん)」の山頂だった。

 

見晴らしのいい草原の中、二人は並んで遊歩道を歩いていく。

やがて、眼下に玖珠の町並みが一望できるポイントにたどり着いた。

 

「うわぁ……! すごい綺麗な景色……」

斎藤は目を輝かせ、吸い込まれるように眼下のパノラマを見つめた。陽介は少し後ろから、春風に髪を揺らす彼女の横顔を静かに見守っていた。

 

その時だった。作業着の下で胸元に触れていたボルトが、ジリッと明確な熱を持った。

たまらず、陽介は服の襟元からボルトを外へと引き出した。先ほどお好み焼き屋で感じた微かな温もりとは違う、確かな熱だった。

 

ふと視線を上げると、景色に感動していたはずの斎藤が、何かに吸い寄せられるように、遊歩道を外れて草原の奥へと歩き出していた。

向かった先は、伐株山特有の切り立った土手の縁――かつて、ハルが好んで立ち止まった『あの場所』だった。

 

山の下から、勢いよく吹き上げる強い風が彼女の髪を大きく揺らす。

斎藤は土手の縁ギリギリに立つと、吹き上げる風を全身に受けるように、両手を真横にピンと広げた。

 

「すごい風。……ふふっ、鳥になったみたい」

 

春の青空の下、風を切り裂くように両手を広げて笑う斎藤の姿と、彼女の口からこぼれた無邪気なその言葉。それは、あの日同じ場所で、同じポーズをとりながらハルが言った言葉と、寸分違わず重なり合っていた。

 

(……ハル、さん)

 

陽介の視界の中で、過去のハルと現在の斎藤が完全に同化した、その瞬間。胸元に出されたボルトは、まるで内側に命の炎を宿したように、突然、燃え盛るような赤熱の輝きを放ち始めた。

 

「熱ッ……」

ジュッ、という微かな焦げ音と共に、ボルトを結んでいた革紐が焼き切れた。

支えを失った赤熱のボルトは陽介の胸元から滑り落ち、音もなく足元の深い草むらの中へと転げ落ちていく。

 

(しまった……!)

 

心臓が跳ね上がり、血の気が引くのを感じた。あの日、彼女が残していってくれた唯一の愛の証。それを失う恐怖に、陽介は思わず我を忘れて叫び出しそうになった。

 

しかし、案内人としての理性が、彼をかろうじて踏みとどまらせた。

今、自分は仕事中なのだ。目の前で景色を楽しんでいる斎藤に、個人的な事情で心配をかけたり、迷惑をかけたりしてはいけない。

 

陽介は激しく動揺する心を必死に押さえ込み、あくまで平静を装って草むらにしゃがみ込んだ。

 

「すみません、斎藤さん。ちょっと落とし物をしてしまって。すぐに見つけますから、どうぞ景色を楽しんでいてください」

できるだけ穏やかな声を作って言うと、振り返った斎藤が慌てて駆け寄ってきた。

 

「星野さん、何か失くしたんですか?」

「ネックレスが壊れてしまって……」

 

「私も探します」

「いえ、お気になさらず……」

 

「駄目ですよ。さっき、星野さんの『一番大切なもの』だって言ってたじゃないですか」

 

斎藤も一緒にしゃがみ込み、草むらの中へ両手を差し入れた。

 

二人で手分けをして探したものの、小さな鉄の欠片はいくら探しても見つからなかった。時間だけがじりじりと過ぎていく。

 

(……駄目だ。これ以上、お客さんの時間を奪うわけにはいかない)

 

陽介は、自分に言い聞かせるようにギュッと目を閉じた。

奇跡など、やはり自分には許されていなかったのだ。このまま永遠に、ボルトも、彼女の残像も失って生きていくしかないのだと。絶望に似た諦めを、陽介は静かに飲み込んだ。

 

「斎藤さん、もう大丈夫です。見つからないみたいなので、諦めます。ご案内を続けましょう」

 

陽介は、感情を殺した声でそう告げて立ち上がった。

 

斎藤は少し離れた場所を探していた。陽介の声は聞こえていたが、もう少し探そうと辺りを見渡していると草の中で赤熱色に煌めく『それ』が飛び込んできた。

 

「あ……」

 

彼女は引き寄せられるように手を伸ばし、恐る恐る、その温かい光を放つボルトに指先で触れた。

 

カッ――!!

 

指先が触れた瞬間、ボルト(ハルの依り代であり、彼女の記憶と愛の結晶)から、目を開けていられないほどの強烈な琥珀色の光が放たれた。

その光は、まるで渇いた土に水が染み込むように、斎藤の身体へと一気に流れ込んでいった。

 

***

 

琥珀色の光が彼女の身体へと吸い込まれ、完全に収まると、伐株山の山頂にはいつもの穏やかな春の静寂が戻っていた。

琥珀色の光が発せられたことなど知る由もない陽介は、 斎藤に向かって歩み寄り、しゃがみこんでいる彼女の背中に声をかけた。

「斎藤さん……もう見つからないから、本当に大丈夫です。諦めましょう」

 

無理に作った穏やかな声だった。

しかし、背を向けたままの彼女は、すぐには振り返らなかった。ただ、吹き上げる風の中で、何かを愛おしそうに両手で包み込んでいる。

 

やがて、春の風が静かに吹き抜ける中。

 

「……みつけたよ」

 

背を向けたままこぼれ落ちたその一言が、陽介の鼓膜を激しく震わせた。

それは、斎藤の現代的で明るい声ではない。深く、柔らかく、どこまでも愛情に満ちた……陽介が一日たりとも忘れたことのない、『ハル』の声だった。

 

ハッとして弾かれたように顔を上げた陽介の目の前で、彼女がゆっくりと立ち上がり振り返る。

 

「ずっと……大切に持っていてくれたんだね」

 

その両手には、すっかり元の錆びた色に戻ったあのボルトが、祈るように握りしめられていた。

そして、彼女の瞳はもう「斎藤」のものではなかった。かつて大正時代の蒸気機関車の誇りを胸に宿し、そして陽介という一人の人間を深く愛した、あの『ハル』の琥珀色の輝きが、確かな涙と共に溢れ出していた。

 

「ハル……なのか?」

 

陽介の震える声に、彼女は泣き笑いのような笑顔で、静かに、そして力強く頷いた。

陽介は、考えるよりも先に地を蹴っていた。

人間として生まれ変わり、失われていた記憶を取り戻したハル。ずっと彼女の遺志を継ぎ、絶望の中でも思い出を大切に守り続けてきた陽介。

陽介は、今度こそ透き通ることのない、確かな命の温もりを持った彼女を、壊れそうなほど力強く腕の中に抱きしめた。

 

「ああ……っ、ハルッ……!!」

「苦しいです、陽介さん……ふふ、でも、すごく温かい」

 

春の青空の下、伐株山の山頂で、強く抱きしめ合う二人の影が一つに重なっていた。

 

***

 

後日。

玖珠町の路地裏で、ついに一つのカフェのオープニングセレモニーが行われた。

 

『Steam Locomotion(スチーム・ロコモーション)』

 

蒸気機関車の車輪は、左右の動きがあえて少しだけずれるように作られている。

片方が力を出せずに立ち止まりそうになった時、もう片方がその分をしっかり補って背中を押すことで、決して回転を止めずに力強く前へ進み続けるためだ。

 

不器用で立ち止まってばかりだった陽介と、彼を温かく包み込むハル。互いの足りない部分を支え合い、力を補い合いながら、この先の新しい時間を共に進んでいく二人にとって、これ以上ない名前だった。

 

爽やかな夏の初め、柔らかな日差しが差し込む、木の香りに包まれた店内。カウンターの中では、不器用ながらも満面の笑顔でドリップコーヒーを淹れる陽介の姿があった。

そしてその傍らには、明るく笑い、町の人々に楽しそうに給仕をする旾(ハル)の姿がある。

 

「はい、お待たせいたしました! 当店自慢のブレンドです」

 

鈴を転がすような彼女の声が、手作りの温もりに溢れた店内に響き渡る。

もう消えてしまうことのない確かな命を得た旾と、過去の悲しみを乗り越え、自らの手で居場所を作り上げた陽介。奇跡によって再び結ばれた二人が、互いを力強く前へ押し出しながら、この玖珠町で新しい車輪を回していく。

 

彼らがこれから紡いでいく温かい物語を祝福するように。

遠く離れた角牟礼城跡の石垣の上からは、威厳に満ちた殿猫と、七匹の精悍な武将猫たちが、満足げに目を細めて春の町を見下ろしていた。

 

――完――

【伐株山の伝説】

むかしむかし、玖珠の地には天まで届くほど巨大なクスノキがそびえ立っていました。しかし、そのあまりの大きさゆえに里は日陰に覆われ、作物が育たず人々は困り果てていました。

 

そこで里人は、ひとりの大男の木こりを雇い、大木を切り倒そうと試みます。ところが、クスノキは不思議な力を持っており、切っても切っても翌朝には傷口が元通りに塞がってしまいます。

 

大男がいよいよ諦めかけたその時、どこからか妖精が現れ、大木を倒す秘密を打ち明けました。それは「切り落とした木屑を燃やしながら切ること」。クスノキの永遠なる再生力を、火によって封じ込めるという知恵でした。

 

大男が教えの通りに切り進めると、やがて大音響とともにクスノキは倒れました。豊かな太陽の光が降り注ぐようになった山里は、美味しいお米や野菜が育つ土地へと生まれ変わります。

 

この時、残された巨大な切株が現在の「伐株山(きりかぶさん)」となり、クスノキのあった里は「玖珠(くす)町」と呼ばれるようになりました。

 

また、倒れた大木が「ここまでは来るめぇ」と届いた場所が「久留米」、落ちた葉の形がついた場所が「博多(葉型)」、鳥の巣が落ちた場所が「鳥栖」、そしてクスノキの長い先端が届いた場所が「長崎」になったと、今も語り継がれています。

 

 

 

【青い月(ブルームーン)】

数年に一度だけ訪れる「ひと月に二度目の満月」のこと。

めったに起こらないことの代名詞として「Once in a blue moon」という言葉があるほど、希少でロマンチックな天体現象である。

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