
◆第4話「ほどける鎧」
タクシーを降りた二人は、ゆったりとした時間の流れる町並みを歩き、やがて玖珠町役場のエントランスへと足を踏み入れた。
スマートフォンの地図アプリで現在地を確かめることも、次の目的地の到着時刻を計算することもない。ただ、隣を歩くハルの穏やかな歩幅に合わせているだけで、春の陽気が心地よく感じられた。
「少し、見ていただきたいものがあるんです」
ハルが足を止めたのは、ロビーの一角に設けられた展示スペースだった。
大分の郷土玩具である「きじ車」が静かに並んでいる。木削りで雉(きじ)をかたどり、二つの車輪がついた素朴で愛らしい玩具だ。
決して精密な工業製品ではない。だが、木という素材が持つ本来の柔らかさと、刃物を握った作り手の丁寧な息遣いが、その丸みを帯びたフォルムから確かに伝わってくる。
「これは、昔からこの土地で愛されてきたものです」
ハルは少し身を乗り出し、荒削りな木肌の質感をその目で直接確かめるように見つめながら、静かに口を開いた。
「効率やスピードだけを追い求めていたら、この素朴な温もりは生まれません。人の手で丁寧に時間をかけられ、想いを込められたものには……確かな『命』が宿るんですよ」

想いを込められたものには、命が宿る。
鈴を転がすようなハルの声が、陽介の胸の奥にストンと落ちた。
カフェを開業しようと躍起になっていた時、自分が夜を徹して作っていたのは、利益率や回転率を弾き出した「完璧な数字の羅列」だった。そこに、店を訪れる人の体温や、空間に対する想いはすっぽりと抜け落ちていたのだ。
『ウチらにはちょっと息が詰まるわ』と世話役に言われた意味が、今なら痛いほどよく分かる。
素朴な郷土玩具と、それを愛おしそうに見つめるハル。
彼女の胸元で揺れる琥珀のネックレスもまた、誰かの途方もない時間と想いが込められたものに見えた。
陽介は小さく息を吐き出した。
自分がずっと身にまとっていた「効率」と「完璧主義」という重たい鎧の紐が、音を立てて解けていくのを感じていた。
「……陽介さん?」
「いや、なんでもない。なんだか急に、腹が減ってきたなと思って」
陽介が誤魔化すように笑うと、ハルは「ふふっ」と口元を押さえて笑った。
「ふふふ。実は、陽介さんにどうしても召し上がっていただきたい、とっておきのお店があるんです」
そう言って歩き出した彼女の足取りは、先ほどよりも少しだけ弾んでいるように見えた。
ハルに連れられて辿り着いたのは、少し路地を入った先にある、年季の入ったお好み焼き屋だった。
暖簾をくぐると、ソースが熱で焦げる甘辛い匂いがふわりと鼻をくすぐる。
(……ここで、お好み焼きか)
案内された席に腰を下ろしながら、陽介は心の中で密かに苦笑した。
兵庫県出身の陽介にとって、お好み焼きは馴染み深い日常の味だ。まさか大分の玖珠町で、しかも大正時代から抜け出してきたようなクラシカルな装いの女性と、鉄板を囲むことになるとは想像もしていなかった。
壁に貼られた手書きのメニューから定番の豚玉を二つ頼むと、やがて熱々のお好み焼きが運ばれてきた。
「いただきます」
向かいの席で両手を合わせたハルは、迷いなく割り箸を手に取った。
そして、手慣れた様子でお好み焼きを小さく切り分けると、顔を近づけて「ふー、ふー」と一生懸命に息を吹きかけ始めた。
フリルブラウスに琥珀のネックレスという優雅な出立ちのまま、湯気の向こうで熱心にお好み焼きを冷ます姿は、彼女の神秘的な雰囲気からするとあまりにもギャップがあった。
やがて、程よく冷めたであろう一口をパクリと頬張る。
その瞬間、彼女の琥珀色の瞳がパッと輝き、花が咲いたように頬が緩んだ。心の底から幸せそうな、飾らない、無邪気な笑顔だった。
「……っ、ふ、あははっ!」


気づけば、陽介の口から声がこぼれていた。
最初は押し殺したような笑いだったが、やがて肩を揺らし、声に出して笑ってしまった。
「えっ? 陽介さん、私、何かおかしなことをしましたか?」
箸を止めて不思議そうに小首を傾げるハルを見て、陽介はさらに吹き出しそうになるのを必死で堪えながら手を振った。
「いや、ごめん。俺、兵庫出身やからお好み焼きは昔からよく食べてるけど。君みたいな上品な人が、そんなに幸せそうな顔でお好み焼きを頬張るもんだから……そのギャップが、なんかすごく良くて」
「もう、笑わないでくださいよ。ここのお好み焼き、本当に美味しいんですから」
少し恥ずかしそうに頬を膨らませるハルに、陽介は「悪かったよ」と笑いながら自分の割り箸を割った。
陽介は一口頬張り、笑いすぎた目元を指で拭いながら、ふと気づく。玖珠町に移住してきてから半年間、自分がこんな風に声を出して、他人の前で自然に笑ったことなど、ただの一度もなかったということに。
彼を縛り付けていた完璧主義という冷たい鎧は、もう完全に脱げ落ちていた。
腹の底に落ちていく熱々のお好み焼きと、目の前にあるハルの無邪気な笑顔が、陽介の心にじんわりと温かい灯りを点してくれていた。
お腹を満たし、すっかり打ち解けた二人は、再びお爺ちゃんのタクシーに乗り込んで坂道を登っていた。

【次回予告】
「ほら、見てください! ふふっ、鳥になったみたいでしょう?」
吹き上げる風の中、眩しいほどの笑顔を見せるハル。しかし、夕暮れの町外れで、彼女の表情は一変する。
次回、第5話「伐株山の風と、黄昏の機関庫」。