
◆第12話(最終話)「スチーム・ロコモーション」
軽トラは、春の陽光が降り注ぐ山道をゆっくりと登り切った。
陽介が最後の目的地として選んだのは、かつてハルと共に訪れた二人の思い出の場所、「伐株山(きりかぶさん)」の山頂だった。
見晴らしのいい草原の中、二人は並んで遊歩道を歩いていく。
やがて、眼下に玖珠の町並みが一望できるポイントにたどり着いた。
「うわぁ……! すごい綺麗な景色……」
斎藤は目を輝かせ、吸い込まれるように眼下のパノラマを見つめた。陽介は少し後ろから、春風に髪を揺らす彼女の横顔を静かに見守っていた。
その時だった。作業着の下で胸元に触れていたボルトが、ジリッと明確な熱を持った。
たまらず、陽介は服の襟元からボルトを外へと引き出した。先ほどお好み焼き屋で感じた微かな温もりとは違う、確かな熱だった。
ふと視線を上げると、景色に感動していたはずの斎藤が、何かに吸い寄せられるように、遊歩道を外れて草原の奥へと歩き出していた。
向かった先は、伐株山特有の切り立った土手の縁――かつて、ハルが好んで立ち止まった『あの場所』だった。
山の下から、勢いよく吹き上げる強い風が彼女の髪を大きく揺らす。
斎藤は土手の縁ギリギリに立つと、吹き上げる風を全身に受けるように、両手を真横にピンと広げた。
「すごい風。……ふふっ、鳥になったみたい」

春の青空の下、風を切り裂くように両手を広げて笑う斎藤の姿と、彼女の口からこぼれた無邪気なその言葉。それは、あの日同じ場所で、同じポーズをとりながらハルが言った言葉と、寸分違わず重なり合っていた。
(……ハル、さん)
陽介の視界の中で、過去のハルと現在の斎藤が完全に同化した、その瞬間。胸元に出されたボルトは、まるで内側に命の炎を宿したように、突然、燃え盛るような赤熱の輝きを放ち始めた。
「熱ッ……」
ジュッ、という微かな焦げ音と共に、ボルトを結んでいた革紐が焼き切れた。
支えを失った赤熱のボルトは陽介の胸元から滑り落ち、音もなく足元の深い草むらの中へと転げ落ちていく。
(しまった……!)
心臓が跳ね上がり、血の気が引くのを感じた。あの日、彼女が残していってくれた唯一の愛の証。それを失う恐怖に、陽介は思わず我を忘れて叫び出しそうになった。
しかし、案内人としての理性が、彼をかろうじて踏みとどまらせた。
今、自分は仕事中なのだ。目の前で景色を楽しんでいる斎藤に、個人的な事情で心配をかけたり、迷惑をかけたりしてはいけない。
陽介は激しく動揺する心を必死に押さえ込み、あくまで平静を装って草むらにしゃがみ込んだ。
「すみません、斎藤さん。ちょっと落とし物をしてしまって。すぐに見つけますから、どうぞ景色を楽しんでいてください」
できるだけ穏やかな声を作って言うと、振り返った斎藤が慌てて駆け寄ってきた。
「星野さん、何か失くしたんですか?」
「ネックレスが壊れてしまって……」
「私も探します」
「いえ、お気になさらず……」
「駄目ですよ。さっき、星野さんの『一番大切なもの』だって言ってたじゃないですか」
斎藤も一緒にしゃがみ込み、草むらの中へ両手を差し入れた。
二人で手分けをして探したものの、小さな鉄の欠片はいくら探しても見つからなかった。時間だけがじりじりと過ぎていく。
(……駄目だ。これ以上、お客さんの時間を奪うわけにはいかない)
陽介は、自分に言い聞かせるようにギュッと目を閉じた。
奇跡など、やはり自分には許されていなかったのだ。このまま永遠に、ボルトも、彼女の残像も失って生きていくしかないのだと。絶望に似た諦めを、陽介は静かに飲み込んだ。
「斎藤さん、もう大丈夫です。見つからないみたいなので、諦めます。ご案内を続けましょう」
陽介は、感情を殺した声でそう告げて立ち上がった。
斎藤は少し離れた場所を探していた。陽介の声は聞こえていたが、もう少し探そうと辺りを見渡していると草の中で赤熱色に煌めく『それ』が飛び込んできた。
「あ……」

彼女は引き寄せられるように手を伸ばし、恐る恐る、その温かい光を放つボルトに指先で触れた。
カッ――!!
指先が触れた瞬間、ボルト(ハルの依り代であり、彼女の記憶と愛の結晶)から、目を開けていられないほどの強烈な琥珀色の光が放たれた。
その光は、まるで渇いた土に水が染み込むように、斎藤の身体へと一気に流れ込んでいった。
***
琥珀色の光が彼女の身体へと吸い込まれ、完全に収まると、伐株山の山頂にはいつもの穏やかな春の静寂が戻っていた。
琥珀色の光が発せられたことなど知る由もない陽介は、 斎藤に向かって歩み寄り、しゃがみこんでいる彼女の背中に声をかけた。
「斎藤さん……もう見つからないから、本当に大丈夫です。諦めましょう」
無理に作った穏やかな声だった。
しかし、背を向けたままの彼女は、すぐには振り返らなかった。ただ、吹き上げる風の中で、何かを愛おしそうに両手で包み込んでいる。
やがて、春の風が静かに吹き抜ける中。
「……みつけたよ」
背を向けたままこぼれ落ちたその一言が、陽介の鼓膜を激しく震わせた。
それは、斎藤の現代的で明るい声ではない。深く、柔らかく、どこまでも愛情に満ちた……陽介が一日たりとも忘れたことのない、『ハル』の声だった。
ハッとして弾かれたように顔を上げた陽介の目の前で、彼女がゆっくりと立ち上がり振り返る。
「ずっと……大切に持っていてくれたんだね」

その両手には、すっかり元の錆びた色に戻ったあのボルトが、祈るように握りしめられていた。
そして、彼女の瞳はもう「斎藤」のものではなかった。かつて大正時代の蒸気機関車の誇りを胸に宿し、そして陽介という一人の人間を深く愛した、あの『ハル』の琥珀色の輝きが、確かな涙と共に溢れ出していた。
「ハル……なのか?」
陽介の震える声に、彼女は泣き笑いのような笑顔で、静かに、そして力強く頷いた。
陽介は、考えるよりも先に地を蹴っていた。
人間として生まれ変わり、失われていた記憶を取り戻したハル。ずっと彼女の遺志を継ぎ、絶望の中でも思い出を大切に守り続けてきた陽介。
陽介は、今度こそ透き通ることのない、確かな命の温もりを持った彼女を、壊れそうなほど力強く腕の中に抱きしめた。
「ああ……っ、ハルッ……!!」
「苦しいです、陽介さん……ふふ、でも、すごく温かい」
春の青空の下、伐株山の山頂で、強く抱きしめ合う二人の影が一つに重なっていた。

***
後日。
玖珠町の路地裏で、ついに一つのカフェのオープニングセレモニーが行われた。
『Steam Locomotion(スチーム・ロコモーション)』
蒸気機関車の車輪は、左右の動きがあえて少しだけずれるように作られている。
片方が力を出せずに立ち止まりそうになった時、もう片方がその分をしっかり補って背中を押すことで、決して回転を止めずに力強く前へ進み続けるためだ。
不器用で立ち止まってばかりだった陽介と、彼を温かく包み込むハル。互いの足りない部分を支え合い、力を補い合いながら、この先の新しい時間を共に進んでいく二人にとって、これ以上ない名前だった。
爽やかな夏の初め、柔らかな日差しが差し込む、木の香りに包まれた店内。カウンターの中では、不器用ながらも満面の笑顔でドリップコーヒーを淹れる陽介の姿があった。
そしてその傍らには、明るく笑い、町の人々に楽しそうに給仕をする旾(ハル)の姿がある。
「はい、お待たせいたしました! 当店自慢のブレンドです」

鈴を転がすような彼女の声が、手作りの温もりに溢れた店内に響き渡る。
もう消えてしまうことのない確かな命を得た旾と、過去の悲しみを乗り越え、自らの手で居場所を作り上げた陽介。奇跡によって再び結ばれた二人が、互いを力強く前へ押し出しながら、この玖珠町で新しい車輪を回していく。
彼らがこれから紡いでいく温かい物語を祝福するように。
遠く離れた角牟礼城跡の石垣の上からは、威厳に満ちた殿猫と、七匹の精悍な武将猫たちが、満足げに目を細めて春の町を見下ろしていた。
――完――

【伐株山の伝説】
むかしむかし、玖珠の地には天まで届くほど巨大なクスノキがそびえ立っていました。しかし、そのあまりの大きさゆえに里は日陰に覆われ、作物が育たず人々は困り果てていました。
そこで里人は、ひとりの大男の木こりを雇い、大木を切り倒そうと試みます。ところが、クスノキは不思議な力を持っており、切っても切っても翌朝には傷口が元通りに塞がってしまいます。
大男がいよいよ諦めかけたその時、どこからか妖精が現れ、大木を倒す秘密を打ち明けました。それは「切り落とした木屑を燃やしながら切ること」。クスノキの永遠なる再生力を、火によって封じ込めるという知恵でした。
大男が教えの通りに切り進めると、やがて大音響とともにクスノキは倒れました。豊かな太陽の光が降り注ぐようになった山里は、美味しいお米や野菜が育つ土地へと生まれ変わります。
この時、残された巨大な切株が現在の「伐株山(きりかぶさん)」となり、クスノキのあった里は「玖珠(くす)町」と呼ばれるようになりました。
また、倒れた大木が「ここまでは来るめぇ」と届いた場所が「久留米」、落ちた葉の形がついた場所が「博多(葉型)」、鳥の巣が落ちた場所が「鳥栖」、そしてクスノキの長い先端が届いた場所が「長崎」になったと、今も語り継がれています。
【青い月(ブルームーン)】
数年に一度だけ訪れる「ひと月に二度目の満月」のこと。
めったに起こらないことの代名詞として「Once in a blue moon」という言葉があるほど、希少でロマンチックな天体現象である。
