
◆第10話「奇跡のボルト」
突風が吹き込み、頭上の老朽化した窓枠が大きな音を立てて外れた。無数の鋭いガラス片が、ハルの頭上へと降り注ぐ。
「あぶないっ!!」
陽介は考えるよりも早く地を蹴り、ハルを庇うようにその小さな身体へ覆いかぶさった。
直後、鈍い衝撃音と共に、陽介の背中や肩に鋭い痛みが走る。
「……っ!」
ハッとして我に返ったハルは、陽介が身を挺して自分を守ってくれたことに気づいた。陽介はよろめきながら身体を起こし、血の気を失った顔でハルを見つめる。

「大丈夫、か……?」
「陽介さん……血が……!」
ハルが無事であることを確認すると、陽介はふっと安堵の微笑みを浮かべ、そのまま力なく冷たい床へと崩れ落ちた。急速に意識が遠のいていく。
「嫌……陽介さん、お願い、目を開けて!」
ハルは慌てて出血を止めようと、陽介の傷口に手を押し当てた。しかし、陽介に完全に心を開いてしまった彼女の両手はすでに実体を失い、無情にも彼の身体を『すり抜けて』しまった。
消えかかった今の身体では、手当をすることも、誰かに助けを呼ぶこともできない。
血を流し、冷たくなっていく陽介を前にして、ハルは悟った。先ほどまでどうしていいか分からず泣きそうに歪んでいた彼女の顔から迷いが消え、明確な目的を持った凛とした表情へと変わる。
乱れていた着衣を正し、ハルは、陽介の傍らに綺麗に座り直した。
薄暗い機関庫の闇の中、彼女の身体の輪郭は雨の湿気に溶け出すように淡く透け、背後の冷たいコンクリートが微かに透けて見えそうに揺らいでいる。
ハルは、今にも霧散してしまいそうなその輪郭を自らの意志で必死に繋ぎ止めながら、胸元で弱々しく光る「琥珀のネックレス」を外し、陽介の首へとかけた。
琥珀に両手を重ね、ハルは祈るようにそっと目を閉じた。

***
――気がつくと、陽介は不思議な光に包まれた静かな空間に立っていた。
痛みも、嵐の寒さもない。
目の前には、いつものように穏やかに微笑むハルが立っていた。
『探しちゃ駄目って、言ったのに』
咎めるような言葉とは裏腹に、彼女の声はどこまでも優しく、深い愛情に満ちていた。
陽介は震える足で歩み寄り、彼女の肩を掴もうと両手を伸ばした。しかし、ハルは哀しい微笑みを浮かべたまま、すっと後ろへ一歩退いた。彼女の胸元でかつて温かい光を放っていた琥珀のネックレスは、今はまるで命の灯火が尽きかけるように、頼りなく明滅を繰り返している。
「どうして……どうして君が消えなきゃならないんだ」
悲痛な叫びを上げる陽介に、ハルは静かに首を振った。
『陽介さんのせいじゃありません。これは、私がルールを破ってしまった罰なんです。……私は、人間ではありません』
陽介は息を呑んだ。
あの時、角牟礼城跡で殿猫が放った『あれは、貴様らと同じ時間を生きる者ではない』という忠告が、鈍い痛みとなって蘇る。
『かつてこの町を走り、人々のために尽くした8620型蒸気機関車68623。彼女は皆に祝福されて去っていきましたが、私は整備の過程で失われ、この機関庫に取り残された……ただの一つのボルトでした』
ハルの背後に、漆黒の蒸気機関車の幻影が浮かび上がる。
『人の役に立つという使命を全うできず、ただ人に役立ちたい、人間になりたいと焦がれ続けた鉄の欠片。その思いが、青い月の夜、山の神様から零れ落ちた命の素(琥珀)と重なり、私にこのかりそめの姿をくれました。案内人としてこの町の人々に尽くすこと……それが、私がこの世界に留まるための絶対の契約だったんです』

ハルは琥珀色の瞳からポロリと涙をこぼし、それでも陽介を真っ直ぐに見つめた。
『……でも、私は出会ってしまった。独りぼっちで、不器用で、でも誰よりも温かい心を持った、迷子のあなたに。案内人としての使命よりも、ただ一人の人間の傍にいたいと願ってしまった。……陽介さん、あなたを愛してしまったんです』
『君じゃなきゃ、駄目なんだ』
あの日、陽介が真っ直ぐに伝えた言葉。
それが、人々に尽くすという彼女の純粋な「誓い」を、ただ一人を想う「愛」へと完全に書き換えてしまったのだ。
『あなたと結ばれ、あなたと共に生きたいと願った瞬間に、私は契約を破りました。だから、もう留まる力がないんです。私があなたを深く愛すれば愛するほど、私は消えてしまう』
「……嘘だろ。そんなの、あんまりじゃないか……っ!」
陽介は両手で顔を覆い、膝から崩れ落ちた。
自分が彼女を求め、彼女がそれに応えてくれたからこそ、彼女の命を削り、世界から消し去ろうとしているだなんて。
『陽介さん、泣かないで』
透けかけた冷たい手が、陽介の頬にそっと触れた。物理的な感触はない。ただ、微かな春の風のような温もりだけが、そこにあった。
『私、ちっとも後悔してないんですよ。あなたに恋をして、一緒に笑い合えた時間が……私がこの世界に存在したなかで、一番の奇跡だったから』
ハルの身体が、腰のあたりからまばゆい光の粒子となって溶け出し始めた。
『さようなら、私の愛しい人。……どうか、温かいお店を作ってくださいね』
「待ってくれ! ハル……ハルッ!!」
「あああああぁぁぁぁっ……!!」
陽介が必死に腕を伸ばし、その身体を抱きしめようとした――。
***
冷たいコンクリートの上に横たわる陽介の傍らで。
ハルは、自身を形作っていた残るすべての命の素の力を限界まで凝縮し、一瞬の強い輝きへと変化させた。
その瞬間、辺りは目を開けていられないほどの命の輝きに照らされた。
ハルの身体は光の粒子となって機関庫の闇に溶け込み、陽介の深い傷口を温かな光が包み込んでいく。そして後には、ネックレスの紐と、彼女の本来の姿である、一つの古びた『ボルト』だけが残された。
陽介は、深い昏睡の中にいた。
やがて夜が明け、朝の陽光が機関庫の中に差し込んできた時。
外の嵐は嘘のように止み、雲一つない青空が広がっていた。
「……っ」
陽介は、頬を撫でる朝日でゆっくりと目を覚ました。
「ハル……ッ!!」
跳ね起きて辺りを見回したが、そこには誰もいなかった。
背中や肩に触れるが、傷は一つもなく、痛みも完全に消え去っている。外には、朝露に濡れて銀色に輝く草原と、朝日に照らされて眩しく光る転車台が見えた。
何が起きたのかは、夢の中で聞いた彼女の言葉で痛いほど理解していた。
陽介は震える手で、足元のコンクリートの床に落ちていた「一つの錆びたボルト」を拾い上げた。ずっと彼女を縛り付け、そして最後に彼女が残していった、愛の証。
陽介はそのボルトを、残されたネックレスの紐で結び、自分の首から提げた。
冷たい鉄の感触が胸元に触れた瞬間、堪えきれなくなった涙が、陽介の瞳から止めどなく溢れ出した。
【次回予告】
あれから数年。カフェのオープンを控えた陽介の前に、一人の客が現れる。
「サイトウジュンさんですね?」
振り返った彼女の瞳は、あの人と同じ色をしていた。
次回、第11話「再びの春(ハル)」。
