
◆第11話「再びの春(ハル)」
第4章:奇跡のボルトと、青い月の夜
あの嵐の夜、旧豊後森機関庫でハルが光となって消えてから、数年の月日が流れていた。
玖珠町には再び、柔らかな春の陽気が訪れている。
「よし、今日の作業はここまでにするか」
陽介は額の汗を拭い、木屑の舞う店内を見渡した。
彼の手作りカフェ『スチーム・ロコモーション』は、いよいよ完成の形を見せつつあった。まだオープンには至っていないが、問題があるわけではなかった。
何より陽介には、カフェ作りと同じくらい大切な「もう一つの仕事」があった。
空いた時間を使って、観光案内所でガイドとして働いているのだ。かつてハルが、この町を訪れる迷子たちに寄り添っていたように。彼女が愛し、彼女が生きたこの町の魅力を伝えることが、陽介にとって彼女の遺志を継ぐ唯一の方法だった。
陽介は作業着の胸元を探り、革紐で結ばれた「一つの錆びたボルト」をそっと握りしめる。
冷たいはずの鉄の感触は、いつだって陽介の心に、春の風のような微かな温もりを与えてくれていた。
***
翌日の午前中。陽介が観光案内所のカウンターの奥で資料を整理していると、入り口のドアベルが鳴った。
入ってきたのは、キャメル色のスプリングコートを着た、現代的で明るい雰囲気の若い女性だった。彼女はキョロキョロと周囲を見回した後、受付のスタッフに声をかけた。
「あの、すみません。パーソナル観光案内をお願いしたいんですが……」
「はい、承ります。では、こちらのお申し込み用紙にご記入をお願いします」
少し離れた場所で、陽介は何気なくそのやり取りを聞いていた。
「ええと……サイトウ様、ですね。ご希望のコースはございますか?」
スタッフは申し込み用紙に書かれた「斎藤 旾」という見慣れない漢字が読めず、苗字だけで呼びかけた。女性も特に気にする素振りを見せず、少し不思議そうな顔をして頷いた。
「あ、はい。お任せで……なんとなく、この町の色々な景色を見てみたくて」
彼女自身、自分が何を求めてこの玖珠町までやって来たのか、はっきりと分かっていなかったのだ。ただ、胸の奥で何かが「ここへ行かなければ」と強く叫んでいただけで。
「星野くん、悪いんだけど、ご案内お願いできる? 他のタクシーが出払っちゃってて。えっと、お客様は……サイトウ、ジュンさん?かな……」
スタッフは手元の申し込み用紙を見ながら、自信なさげに首を捻って陽介に声をかけた。
「ああ、いいですよ。サイトウさんですね。個人タクシーのお爺ちゃんの手が空いてるか聞いてみます」
陽介はカウンターへ歩み寄り、女性に向かって頭を下げた。
「はじめまして。本日ご案内を担当する、星野と申します」
「はじめまして、斎藤です。急なお願いですみません、よろしくお願いします」

顔を上げた瞬間――陽介は、雷に打たれたように立ち尽くした。
「……あの、どうかしましたか?」
小首を傾げて微笑むその女性の瞳は、吸い込まれるような透き通る『琥珀色』をしていた。
髪型も服装も、口調も全く違う。大正時代から抜け出してきたようなあの古風な雰囲気もない。だが、その面影は、彼が一日たりとも忘れたことのない愛しい人に、あまりにも似ていたのだ。
「……いえ。なんでもありません。車を手配してきますので、少しお待ちください」
陽介は胸のボルトを服の上からそっと押さえ、早鐘を打つ鼓動を必死に沈めながら、足早に外へと向かった。
***
陽介は小走りで案内所を出た。すぐ近くにある個人タクシーの車庫へ向かう途中、見知らぬ黒い猫とすれ違ったが、急いでいた陽介は特に気には留めなかった。
一階がガレージ、二階が住まいになっている昔ながらの車庫の前では、お爺ちゃんが愛車のセダンの洗車と、ボンネットを開けての点検を並行して行っていた。
「お爺ちゃん、急で悪いんだけど、これから一人、お客さんを乗せてもらえるかな?」
「おや、陽介くん。もちろん構わんよ。ちょうど一通り見終わったところだ」
お爺ちゃんはボンネットを閉め、運転席に乗り込んでキーを回した。
キュルル、キュルル……。
しかし、セルモーターが乾いた音を立てるだけで、一向にエンジンが目覚める気配がない。
「おかしいねぇ。今朝までは絶好調だったんだが……」
お爺ちゃんが再びボンネットを開け、首を捻る。
「こりゃ駄目だ。プラグコードが一本なくなっとる。修理を呼ばんと動かんなぁ」
「そんな……斎藤さんを待たせてるのに」
陽介は頭を抱えた。
――彼らは知る由もなかったが、先ほどすれ違った一匹の黒猫が車庫の奥から音もなく舞い降り、素早く部品を抜き取って去っていたのだ。彼こそ角牟礼城跡に陣取る殿猫の命を受けた「忍猫」であった。
陽介は意を決し、案内所で待つ彼女のもとへ戻った。
「本当に申し訳ありません。手配したタクシーが故障してしまって……もしよろしければ、僕の軽トラでご案内してもよろしいでしょうか?」
「軽トラ? ふふっ、なんだか楽しそう! ぜひお願いします」
斎藤は嫌な顔一つせず、むしろ面白がるように目を輝かせた。
かくして陽介は、少し泥の跳ねた自分の愛車である軽トラの助手席に彼女を乗せ、春の玖珠町へと車を走らせることになった。
案内所に残されたスタッフは、申し込み用紙を見つめて首を傾げていた。
「このお名前、なんて読むんだろう? シュン? じゅん?」
そこへ、案内所の様子を見に来た個人タクシーのお爺ちゃんが、ひょいと用紙を覗き込んだ。
「おや、珍しい字だねぇ。これは『春』の古字だよ。ハル、って読むんだ」
「へぇ、ハルさん……素敵な名前ですね」
スタッフたちのそんな会話を、外に出た陽介が知る由もなかった。
***
軽トラの窓を開け放つと、柔らかな春の風が車内に流れ込んでくる。
助手席で景色を珍しそうに眺める斎藤の横顔に、陽介は何度もあの「琥珀色の瞳の女性」の面影を重ねてしまいそうになった。
だが、陽介は小さく頭を振り、その感情を無理やり心の奥底に押し込んだ。自分は案内人なのだから、個人的な感情を持ち込んではいけない。そう自分に強く言い聞かせながら。
案内ルートは、かつて自分が歩いた道を選んだ。

玖珠町役場のロビー。展示スペースに静かに並ぶ郷土玩具「きじ車」の前で、斎藤は足を止めた。
「……可愛い。なんだか、すごく人の手の温もりを感じますね」
昼食は、少し路地を入った先にある味わい深いお好み焼き屋だった。
「ご案内するような洒落た店じゃなくてすみません。でも、ここの豚玉は最高なんです」
熱々の豚玉が運ばれてくると、斎藤は「いただきます」と手を合わせ、小さく切り分けた一つを小皿にとると、「ふー、ふー」と一生懸命に息を吹きかけ始めた。
そして、程よく冷めた一口を頬張った瞬間、花が綻ぶように頬を緩ませた。
「んんっ! すごく美味しいです!」
彼女は満面の笑みを浮かべた後、ふと不思議そうに小首を傾げた。
「……あれ?」
「どうか、しましたか?」
「私、ここに来たのは初めてのはずなのに……なんだか、前にも同じようにして、誰かとすごく楽しくお好み焼きを食べたことがあるような気がして」


まるで遠い夢を思い出すような彼女の言葉。
その瞬間、陽介の胸元で、作業着の下に提げている「錆びたボルト」が、カッと熱を帯びたように感じた。
「っ……」
陽介は思わず胸元を押さえた。
「星野さん、どうしたんですか?」
「いえ……鉄板の熱で、ネックレスが少し温まっただけみたいです」
陽介は服の上からボルトをそっと撫でながら、何気ない風を装って誤魔化した。
斎藤の視線が、陽介の胸元に向けられる。
「星野さん、さっきから気になっていたんですけど……そのネックレス、なんだかすごく大切そうに触りますね。何か特別なものなんですか?」
陽介は服の中からボルトを出すと手のひらに載せながら、懐かしそうな表情をした。
「……ええ。とても、大切なものです。俺に、一番大切なことを教えてくれた人が、残していってくれたものだから」
陽介は静かに、ただ事実だけを答えた。
斎藤は「そうなんですね」と短く呟き、それ以上は踏み込んでこなかった。
(ただの偶然だ。)
陽介は鉄板の上のお好み焼きを見つめながら、自らを戒めた。
彼女が時折見せるまるでハルのような懐かしい表情は、すべては自分の未練が見せる幻なのだと。あの日、機関庫で光となって消えた彼女が戻ってくることなど、あり得ないのだから。
午後からの案内も、陽介は努めて冷静に、一人のガイドとして玖珠町の魅力を伝え続けた。
やがて、陽介は軽トラのハンドルを、最後の目的地へと向けた。
***
【次回予告】
「すごい風。……ふふっ、鳥になったみたい」
伐株山の山頂で、過去と現在が完全に重なり合う。
赤熱したボルトが草むらに落ちた時、最後の奇跡が目を覚ます。
最終話「スチーム・ロコモーション」。
