
◆第3話「琥珀色の案内人」
「よろしければ、私がご案内いたしましょうか」
ふいに、背後から凛とした声が響いた。
鈴を転がすような、それでいて不思議と耳の奥にスッと馴染む落ち着いた声。陽介は弾かれたように振り返った。
そこに立っていたのは、時代を間違えて迷い込んできたかのような、ひとりの女性だった。
クラシカルな生成りのフリルブラウスに、足首まである深い灰色のプリーツスカート。艶やかな黒髪が、春の柔らかな日差しを吸い込んでいる。
陽介の目を何よりも釘付けにしたのは、彼女の胸元で微かな光を放つ、黒い革紐で吊るされた琥珀のネックレスだった。木と融合した琥珀色の結晶が、まるで彼女自身の鼓動に合わせるように、不思議な温もりを帯びているように見えた。
そして、そのネックレスと同じ、透き通るような琥珀色の瞳。
彼女の周りだけ、大正や昭和のゆったりとした時間が流れているような錯覚に陥る。陽介のモノクロームに沈んでいた視界に、一瞬にして鮮やかな色彩が咲き誇った。

「……あなたは?」
「玖珠の町へ、ようこそおいでくださいました」
彼女は陽介の問いには直接答えず、ふわりと慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
「私の名前は、ハルと申します。少しばかり古い人間ですが……この町の空気をお伝えすることなら、お役に立てるかもしれません」
カウンターの奥の男性は「はて、誰だったかな」というように首を傾げている。どうやら案内所の正規職員というわけでもなさそうだ。
捉えどころのない、不思議な魅力を持つ女性。頭の中で完璧な段取りを求める陽介の性分からすれば、こんな想定外の提案に乗ることは本来あり得ないはずだった。
それでも、なぜか彼女から目を逸らすことができなかった。その琥珀色の瞳の奥に、言葉では説明できない深い「郷愁」と、どこか自分と同じような「孤独の匂い」を感じたからだ。
だからだろうか。彼女のペースに巻き込まれるのはなぜか嫌な気がせず、陽介は警戒するどころか、自然とその提案に頷いていた。
「……陽介です。案内を、お願いできますか」
自分でも驚くほど素直な声が出た。
ハルは嬉しそうに頷くと、「出発、進行ですね」と小さく呟き、陽介に向かって静かに手を差し伸べた。
春の温かい風が、案内所の開いた窓から二人の間をふわりと吹き抜けていった。
第2章:琥珀色の案内人と、ほどける鎧
案内所を出ると、春の柔らかな日差しの中に、一台の古い個人タクシーが停まっていた。少し色褪せた車体がいかにも年季を感じさせる。
「おや、ハルちゃん。今日はお客さんがおるんやね」
運転席から顔を出したのは、白いハンチング帽を被った、人の良さそうなお爺さんだった。のんびりとした大分弁が、長閑な空気に溶け込んでいる。
「ええ。今日は陽介さんをご案内するんです。いつものようにお願いできますか?」
「よかよか。ほんなら、ゆっくり行こうかね」
ハルに促されるまま後部座席に乗り込むと、車内には使い込まれたモケットシートの匂いと、微かなポマードの香りが漂っていた。
運転手がダッシュボードの古いカセットデッキにテープを押し込む。ガチャン、という物理的な手応えに続いて、サーッという特有のノイズ音が鳴り、やがて穏やかなアコースティックギターの旋律が車内を満たし始めた。

タクシーは、エンジンの低い唸り声を上げながらゆっくりと走り出す。
少しだけ開けられた窓から玖珠の春風が滑り込み、隣に座るハルの黒髪をふわりと揺らした。
流れる景色と、アコースティックの調べ。
それは完璧に穏やかな時間だった。しかし、陽介の体にはまだ、都会で身につけた「呪い」が染み付いていた。
無意識のうちにジャケットのポケットからスマートフォンを取り出し、画面をタップする。時刻は午前十時十五分。ロック画面に並ぶ未読メッセージの通知。この後のルートはどうなっているのか、昼食の時間は、効率的な移動の順番は……。頼まれてもいないのに、頭の中で勝手に計算式が組み上がりそうになる。
その時、ふわりと視界の端に生成りの袖が揺れた。
「陽介さん」
鈴を転がすような声に顔を上げると、ハルが少し首を傾げてこちらを見つめていた。その透き通るような琥珀色の瞳が、陽介の手元にある黒い板へと向けられている。
「今日はその小さな時計を、少しだけお休みさせてみませんか?」
咎めるでもなく、呆れるでもない。ただ、こわばった肩の力を抜いてあげるような、ひどく優しい響きだった。
陽介はハルの顔と、無機質に光る自分の手元の画面を交互に見比べた。
一分一秒を争って生きてきた。常に時間を把握し、効率を支配しなければ、社会から弾き出されてしまうと信じていた。事業計画書を作るときも、彼は常にこの「小さな時計」と睨めっこをしていた。
けれど、ここはもう、あの息が詰まるような四角い箱の中ではないのだ。
カチッ。
陽介は短く息を吐き、スマートフォンの電源ボタンを押して画面を真っ暗にした。そしてそれを、カバンの奥底へと滑り込ませる。
「……そうだな。今日は、時間は気にしないことにする」
陽介の言葉に、ハルは花が綻ぶようにふわりと微笑んだ。
胸元で揺れる琥珀のネックレスが、カセットテープから流れるアナログな音色に合わせるように、かすかに温かい光を帯びた気がした。
陽介は背もたれに深く体を預けた。そして、玖珠町に移住してきてから初めて、ただ景色を味わうためだけに、窓の外へと視線を向けた。

【次回予告】
「想いを込められたものには……確かな『命』が宿るんですよ」
古い個人タクシーの窓から吹き込む春の風。そして、湯気の向こうで無邪気に笑う彼女の姿。
次回、第4話「ほどける鎧」。